葛城修験道中胎 中津川     

ここは元々極楽寺阿弥陀堂でしたが、熊野神社の奥に祀られていた行者像を、紀州初代藩主頼宣候の時代に移し、共に祀られるようになってから行者堂と呼ばれるようになったそうです。 石灯篭には寛延3年と彫られており、8代将軍吉宗公との関わりを想像してしまいますが、この時はまだ神変大菩薩の諡号を賜る寛政11年(1799)より溯る事60年前なので、役行者大菩薩と彫られています。

近世は聖護院の直轄地であり幕府や藩の庇護が窺えますが、葛城修験道の中胎と云われるこの村には前鬼から分家した五鬼と呼ばれる五家があり、それぞれ官名を賜り、明治維新の戌辰戦争には聖護院宮雄仁親王が海軍総督に任ぜられたのに伴い従軍したそうです。
                                                                                                                                                                                               2010年5月

葛城28宿第7番経塚の地

また集落へ戻ってきました V(^:^)V   

順路としてはここから前記のお寺へ下りそこから川伝いに峠へ登り返し3番目経塚の大福山を目指すようですが、宿が経塚より多いし、あちこちに行場などもあって訳が判りません・・(^^;
当時は観光産業だったのでしょうか?

28品(章)からなる法華経は1500年程も前に聖徳太子が広めたそうで、それが後年葛城修験道の各経塚へ埋納されたそうです。

今畑廃村 

葛城修験道28宿   

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ここにも葛城修験道の
     納経所があります
   

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禁殺生穢悪

友島五所

観念窟

序品窟

閼伽井 (akai)

深蛇池

剱 池

と彫られています
5つの行場ですね

1番だけあってどこよりも豪華です

この石碑は頼宣候と同時代の
      後陽成天皇の皇子の筆だそうです

  あり難いもんですなあ m(_ _)m

オイラにはやっぱり敗残兵の逃亡経路と重なって・・・
       
                             

また来ま〜っす         

  

いつかはこの右手へ続く観念窟横のフェースを
              トラバースしたいですね!

  落ちても海だし、カムも効きそうだし・・・(^。^)

観念屈の話にに戻りますけど

池の周りにはあちこちに淡水の井戸があります

    多分飲めると思います (^。^)



     
       他に瓦を使った井戸もあります

深蛇池の大半は底無し沼っぽい湿地で
甲子園の1・5倍程もあるそうです

今まで見た事の無い、もの凄くでっかい
青大将が居ました

霊が尻尾つまんだら大将の方がビビって
・・・ 固まってました V(^。^)V


    
げに 奇怪なわらしじゃ (^。^)

寺跡におびただしい数の五輪塔
これが落ち武者部落でなくて何なのだ!

虎島に渡って右手に見える
白いポールを目指します

飯盛山  

村の一番奥に
墓の谷行者堂があります
     

府県境から北へ少し離れた所に飯盛山があります。
頂上すぐ手前に役行者開基と伝わる千間寺跡があり、戦国期には大勢の根来の僧兵が居たそうです。
井戸には不思議と真夏でも水があり、一段上がった所に瓦片が散らばっています。

稜線から離れた独立峰ですが、葛城28宿の第4行場だそうです???(><)
山頂の祠に28宿巡りのお札があげられています。
役行者の葛城49院と行場と後年の葛城28宿・・ こんがらがって訳わかりません(^^;

           日本地名大辞典より


古くは芋畑とも称す、続風土記によれば 「 村中の旧家その族類を総て白髭党と呼ぶ。 元祖は佐々木三郎秀義より六代 」 とあり南北朝期に活躍した事を示す古文書が多く残るが、元来はこの地方の山中を根拠地とする山伏の集団であったと思われるとある。
後醍醐天皇の綸旨写しでは軍功として現貴志川町の大仏師跡を宛がわれているが、後に北朝方の畠山国清に従い所領を安堵され、他に知行地として三毛庄内武成名を宛がわれている。

日本歴史地名大系にも畠山国清からの書下状に 「 御敵出之由有其聞、於池田庄芋畑致野臥、可抽軍忠之状如件 」 とある。  
漢文の師匠によると、敵が出たのを聞き芋畑に野営して戦い、抜きん出た働きをしたのを褒められているそうです。

以後、新守護山名氏、後に大内氏からも安堵されている。

戦国期の1503年、根来寺の足軽200〜300が和泉の国日根庄入山田村(九条家の領地)に発向するとの風聞を受けた同村の若崎右近以下の古老が談判のため根来寺にむかう途中、根来寺の一寺一味の評定により足軽発向が中止された旨を伝える使者と当村で出会った・・・
 等々からオイラの浅識によれば戦国期の白髭党は根来寺と距離を置いていたと思われます。

         1711年の石高 (吉宗公が将軍になる5年前)

             田  116 石余  7町6反
             畑   86 石余  6町9反

             26軒    129人

             庄屋  1
             肝煎  1
             あるき  1
             無役  4
             本役  19
             牛    4
             馬    2
         

116石=米290俵って事は1反当り3.8俵、おいらの生まれた村の千枚田では1反当り10俵は当たり前で豊作の年は
12俵採れていた事から見て、江戸時代の石高は相当抑えられており、伝え聞くほどの重税ではなかったと思われます。
南紀徳川史によると江戸中期からの紀州藩の年貢は7割台ですから現代の計算方法だと全員餓死します m(>。<)m 

      因みに大化の改新の時、1石(2・5俵)獲れる田んぼの面積を1反と定めたそうです。
  

  ここから先は一般ハイカーの方は真似しないで下さい              

そして28宿起点 友ヶ島虎島序品窟              

霊が行く! 府県境廃村               

tama

葛城修験道28宿行所    

そして1里ばかり上流の
村にあったのは紛れも無い寺社跡

熊野古道の王子跡から逸れた村はずれに雰囲気抜群の祠がありました。

この今畑廃村は南北朝以前、近江源氏佐々木氏末流白髭党が住み着いたのが始まりだと伝えられる。
南朝1336年後醍醐天皇の綸旨写しで公事等を免除されているが後に北朝方の畠山国清に従い勝利、所領を安堵されているのは源氏方にしてみれば当然の成り行きであろう。
政権交代の狭間で野武士集団などと揶揄された時代もあったようであるが、平家の落ち武者部落のような悲哀を感じさせないのは朝敵の汚名を着せられることの無かった源氏の持つ華やかさ故なのか、それとも落ち武者郎党 (
早い話が敗残逃亡兵)の裔を気取るオイラの僻みなのであろうか。

廃墟の前で偶然お遭いする事が出来、まさかの墓地へ案内して下さった出身者の御方は小学校4年生の折、一家で街へ降りられたそうであるが、倒壊した多聞寺を再建され御一族守り神の白髭明神を祭られ、不食供養塔をも弔われておられるのを拝見し、やはり源氏の御子孫はチト違うなと啓服仕った次第でございます。
近くを通らば訪ねて来いと、経営される会社の地図まで書いて頂き、齢63にして感極まる追い剥ぎ!あっ違った(^^; 人生裏街道の枯れ落ち葉でありました。
                                   
                              2010年3月  夕陽の衛兵  

タマ

たま

ここに真言宗のお寺があったのは間違いないでしょう
紀州攻めで焼き討ちされたのが只者でなかった証でしょうか 。         

葛城28宿巡りの
お札があげられてます

じょぼんくつ

崖の祠に役行者が
    祀られています

現存する2軒は平成の初め頃
まで住んで居られたといわれます。

800有余年、歴史のフィナーレを迎えようとしていますが、何故かお地蔵様が微笑んで見えました 。

この宝篋印塔は年代の想定すら出来ない程
破壊が進んでますが相当古いものと思われます。

数ある行者堂にして群を抜く風格

中胎と云われるだけの事はありますなあ。

底なし沼?の傍に埋もれた蓮座

蓮座の上に立っていた筈の仏像は
山岳修験道禁止令と廃仏毀釈で
壊されたのかも知れませんね!

それにしても新しすぎて
      歴史を感じさせません

これぞ葛城修験道 
    
28宿第1品 
      
   経塚のある序品窟入り口
第3・第4経塚間に見た! 超限界集落                                        

紀州公が参勤交代で通る熊野古道の府県境から1里ばかり逸れると、威風堂々の旧家が現れた。  10年前まで5軒あったと言われるこの集落は現代たったの2軒。
霊と訪れた初日、田植え支度を済ませたばかりの田んぼ道、あっ!これが村への大通りなんですが、軽さえも危なっかしいその細道ですれ違ったオイラより一回り以上も若い奥様は余りにもこの山中に似つかわしくない御方でありました。

護衛のワンちゃんに睨みつけられたオイラ達に気を使って下さり “だまってそのままゆきなさい!” って仰ったのです  V(^_^)V
従順なワンちゃんはオイラを横目で見ながら奥様の前へと走って行ったのですが、 後で霊が真似するのが何とも可笑しくて・・・ 。
その日は寺社跡に隣接する石塔郡を見せて貰ってそのまま帰ってきたのですが・・・。

集落に目立つ矢竹にしろ、無数の五輪塔や厳しい造りの旧家と、何よりこんな僻地に不釣合いなる楚々としたご婦人、 如何にオイラが浅識でも、これが外れる筈が無い 。 
家に居ても落ち着かず、再びやって参りましたが訪ねたお宅は応答無し。  しばらく寺跡のお墓を拝ませて貰い、昨日の田んぼへトボトボトと歩いて行ったのですが、村に人っ子一人居ないのってのは寂しいもので、諦めて引き返そうとしたその刹那!せつな〜!

護衛の愛犬先導に颯爽とチャリンコで風切るそのお姿は ・・・ 落ち葉踏みしめ さくっ さくっ さくさくさくさく〜〜 
  おくさぁ〜〜ん! おおっ そばやのおやじかぇ〜  なんてわけ無いですが、まさしく昨日の奥方でありました。
無数の五輪塔とお地蔵様、ここに生えたる証の矢竹、集落育ちの奥様ならば知らぬ存ぜぬは通りませぬぞ!と食い下がれば、
さしもの奥方もはやこれまで ・・・実は!と仰るそのお言葉にオイラの胸の痞えがたちどころに治まったのでござりまする。

    そして微笑むそのお顔、慈悲と情けの後光をせおう弥勒菩薩でありました m(_ _)m 。

                                             2010年4月

序品窟・観念窟         

葛城修験道28宿第1番                       

友が島      

じょぼんくつ

ご無理をお願いして案内して頂いた1番奥の集落の旧墓地には、多くの無縁墓が埋もれていて五輪塔の欠片も残っていますが、移設先の墓地には多くの五輪塔が祀られており、紀州攻め以前は真言宗だった事の裏付けとなります。
南朝方に加担したと想われるものの、物的証明には至らず、何より言い伝えが途絶えてしまっているのは街に近すぎる為なのか、それにしても集落育ちの奥様が美人で、夫婦で休日耕作をされているのは誠に心地良いものでありました。

大福山展望台直下の村                  

2010年5月    

ここは役行者開基
葛城49院のひとつ第12番行場で大福山本恵寺(直川観音)の奥の院だそうです。
ここからは飯盛山や俎石山
大阪湾が、南の展望台からは和歌山平野が一望出来ます。

北側へ少し下がった所に3番経塚がありますが、第3番は雲山峰だという説もあるそうです。
葛城修験道は廃れた時期がある為でしょうか? 
言ったもん勝ちの感じがします (^^;

納経所の数の多いこと多いこと (^:^) 

葛城28宿第3番経塚 大福山    

廃村とも限界集落ともぜ〜んぜん関係ないのですが・・・(^^;         

葛城28宿第2番経塚です   

る程言い得て妙である。 八島から小舟を漕ぎ着けた数人連れの敗残兵が生き延びるには最も手っ取り早い手段であったろうし・・ 
それにしても水が豊富で、なだらかで、一山越せば他国の地、こんなラッキーな落ち武者もあったのかと思いきや何の子孫はさにあらず、江戸時代に紀州との境界争いで村を丸々焼かれたらしいです(^^;

あっ!白状しますけど、オイラの村にも似たような追いはぎ伝説が・・ 祖母いわく“ 寝ていて食われる白髪畑 ” って言って、伊勢参りの裏街道だった村の峠の追いはぎ伝説が・・・m(_ _)m

こんなに可愛い地蔵さんは
 見た事ありません
 (^。^)

山の向こうの限界集落     

墓の谷は直川観音の和尚が
        弔われているそうです。

直川観音は秀吉に焼かれるまでは真言宗で
本尊の先手観音は役行者の作だそうです。

干潮時のグレード 5・7ぐらい  満潮時は・・・?? 修行になります (^^;         

この岩の向こうが入り江になっていて
          小船を隠すのに最適です

集落の地蔵さんにも
   葛城28宿巡りのお札が
           あげられてます。

立派な大門から長い階段を登ると
   広い敷地に観音堂と
    日蓮宗の本恵寺があります。

このお宅は屋根が落ち、竹に占領されつつあります。

人形がさりげなく置かれています。
          裕福だったのでしょうね。

髑髏を捧げる

前鬼

この僻地の限界集落は浄土宗ですが寺は真言造りで怪しすぎるものの、伝説を受け継ぐ方は皆無でしたが何度も足を運び、彼岸の中日にお参りされておられた妙齢美人の奥様は集落出身の本家筋で、漸く平家の落ち武者伝説が聞けました。
奥様は、落ち武者 (敗残兵)っていうイメージが嫌いで人に話したことが無いのに (
 家来に多い家紋なので食い下がったら ) これも何かのご縁なのでしょうと仰ってました。
根来の鉄砲同心にしても嫡男だけが継承するわけで、オイラの浅識法則では僻地は本家から順番に町へ出るってのが当ってしまった訳であります。
残念ながらこの集落と廃村の姻戚関係が聞けなかったのは因縁上当然かも知れませんが、街へ下れば遠い昔の敵味方なんて関係ありませんよね (^。^) 。

那智山青岸渡寺や犬鳴山のお札が見えます。

ごく近年再建された多聞寺は
根来の末寺となってますが
明治政府による山岳修験道禁止令
との関わりが想像されます。

多聞天、即ち
毘沙門天が祀られています。


写真で見た数年前の荒れ果てた境内が見違えるように甦ってます。

この不食供養碑は現世の息災と来世の安楽を願って月1回1昼夜、3年3月を満願とし、断食を行ったそうです。

女性達にとって全てから解放される憩いの場であったとも云われます。

兵士を送り出したものはひたすら無事を願い願をかけたのだそうです。

お地蔵様の縁には女性の名前がびっしり彫られています。

和泉山脈には南朝方の数多くの限界集落があり、平家伝説の残る開拓村も複数存在しますが、この村は源氏方にして北朝方、しかも現在は真義真言宗根来寺の末寺という例外中の例外です。
四天王の毘沙門天即ち多聞天を祀る多聞寺が根来寺に帰属したのは明治政府の指示でしょうか。
これは山岳修験道禁止令との兼ね合いによる推測ですが ・・・。

葛城28宿中群を抜くこの五輪塔は昔運ぶ祭、峠越えで馬が骨折したと言い伝えられるそうですが・・かなり重そうです。

廃村と姻戚関係のこの集落は南朝方。

石垣のように見えますが石塔です。
五輪塔だけでも100基近く確認できます。

観念窟には天井のクラックにまで
    葛城28宿巡りのお札が差し込んであります


窟の上部には紀州徳川家初代藩主
    頼宣候の命で彫られた五所の額が見えます

って事は、窟の石碑も頼宣候によるものでしょうか?



オイラが敗残逃亡兵ならココで海賊しますね!
あっ!結局熊野水軍に見つかって観念・・・かな? (^^;

五所の額   

トラバース   

観念窟    

序品窟より

霊が来た4年程前と殆ど
   変わらないそうです。

遠祖を須佐之男命に持ち、出雲族宗家の血を引く役小角は634年、大和国葛城上郡茅原村に生まれ幼名を金杵丸 (こんしょまる) と云った 。

出雲より来て倭国を拓いた賀茂一族であったが侵略者に隷属させられ数百年、賀茂役君の長の誇りと逆襲を胸に秘め、ひたすら修行の日々を送る 。

師、五鬼童の髑髏を見た小角の怒りは、役民、山の民が平和に暮らせる神の国再興への執念の炎となって燃え盛るのである 。

黒須紀一郎伝奇小説に見た役小角

神変大菩薩 

少し離れた平家方 限界集落

一族の守護神
白髭大明神は近江から勧請されたそうで、全国に292の分社があるそうです。

ここは葛城修験道で友ヶ島虎島の序品窟に始まり金剛山から二上山を経て大和川の亀の瀬までの28宿中第5と6経塚の間の行所だそうです。


修験道なのに舟に乗るの?
なんか・・平家の落ち武者の逃亡経路とダブるのですが・・ (^^;
本邦最古のひとつ、諏訪大社に掲げられた船の絵馬しかり、前記の海神社にしても信仰が海に関わりが深いのは遠い祖先の軌跡なのでしょうか? 謎です。

集落の下方から登りきったミカン畑に案内板があります。
昔この辺りに2の宿、神福寺があったそうです。



車の向こう側は広くて、炭焼きをやってました。

この石垣は幕末に常駐した藩士か
それとも陸軍兵士の宿舎跡でしょうか


もしかしたら修験者達の
宿坊跡かも知れませんなあ (^。^)

虎島から振り返り見た沖ノ島

島を繋いだこの石塁も砲台と同じく
明治に出来たものなのでしょうか

波の衝撃を逃がす曲線と
   出来映えには感服ですが
波に?破壊されてしまってます(^^;

第二次大戦終結迄は要塞の島として
地図にも載らなかったそうです

中潮の干潮より4時間前ですが
虎島には簡単に渡れました

帰りは完全に干上がってました

2010年5月17日      

友が島は地の島、沖ノ島、虎島、神島の総称で神代伝説に始まり、神島には大国主命が祀られ淡島神社発祥の地とされ、また役行者にまつわる伝説?の島ですが、幕末期に砲台が出来ると友が島奉行が置かれ、紀州藩士が常駐したと云われるだけあって小さい島にしては飲料水が豊富で、なかなか神秘的な島でした。

明治政府の山岳修験道禁止令により上陸禁止になったそうですが、後に修験者のみ特別許可が下りたと聴きます。
大国主命のお出ましとあらば、海を渡ってまで葛城28宿の第1品が置かれるのも納得せざるを得ませんが、28宿中1番の難所で修験道の真髄を体験出来るのだけは間違いないでしょう。

文献によると葛城28宿第1品は元々加太にあり、鎌倉時代に同地区の真言宗
伽陀寺へ移されたが、武装集団であった為後年例外なく秀吉に焼かれています。
そもそも根来衆、エキスパートなお方の云うに “修験道の陰陽山伏集団で呪詛を業とし、別の顔は山師、たたら精練師、鍛冶師” とかなりなマルチ集団だそうでありますが、勢力拡大の手始めにぶんどった第1宿も最後には返上せざるを得なかったわけで、これぞ神変大菩薩の御心でござりましょうな。
友が島に渡った時期は定かで無く、修験道が一種の観光業的側面を持つようになる時期と重なる気がしてなりませんが、全くの妄想でござりまする 。

役行者大菩薩とあります ・・・
     他ではお目にかかれません V(^。^)V

将軍吉宗公の時代のものですが、
神変大菩薩の諡号を賜るのはこの60年後です。

岬の反対側へ抜けます    

稜線近くにあるこのお墓は境界争いで一歩も引かなかった為に紀州役人の竹槍の犠牲になった庄屋、右門太郎さんを偲び近年建てられたそうです。
超立派な戦士の戒名がつけられています。

徳川と同じく浄土宗なのと、家紋から見て根来同心も居たと思われますが・・・ (^^;

根来同心 = 平家の落ち武者と垣内と根来衆・参照

根来同心

              風聞、廩米3石の在郷超下級武士も居たそうです。

創作劇、暴れん坊将軍の影に控える助八おその等はまさしく影同心ですが、吉宗公が薮田助八数直を見出し、紀州出身者だけで組織したのがお庭番です。
おそのさんが助八の相棒だったかどうかは・・・史書に見当たりませんが (^^;お庭番は城内で作業する植木職や大工等、職人の監視も行ったそうです。
家康公が江戸入府の祭、日本橋浜町に100人の根来の山伏を住まわせたのが根来同心即ち隠密同心の起源と想われます。
南紀徳川史には紀州藩に於ける伊賀者の存在も目立ちます。

ず〜っと離れたこれまた怪しい限界集落 

村の入り口にある神社と多聞寺。

大木に占領された左の階段跡から昔の立派な本殿が想像されますが明治42年に海神社へ合祀されたそうです。

武人の村に欠かせない弓場の地名と境内の矢竹がその昔を偲ばせます。

もはや数軒しか残らないこの集落は和泉山脈の西端府県境沿いにある。

真言造りのこの寺も浄土宗だと仰るし、葛城28宿巡りのお札があったり、墓地に古いお墓が無かったりと、かなり複雑ではあるが、2種類しかない墓の家紋はオイラの確信につけ入る隙などまるで与えない、パーフェクトな限界集落でありました。

オイラより20歳年上の御方いわく、
“ 
今畑廃村が源氏の野武士ならワシの祖先は追いはぎじゃ ”・・ と。

柱と壁に葛城28宿巡りのお札が掛かってます   

崩壊の下敷きでバラバラに壊れた
   毘沙門天が妙に威厳を放ちます。

御子孫に案内された一族のお墓。

後方には数え切れない五輪塔が
祭られています。

左の方には武人の戒名が・・。
そのお宅は案山子(かかし)に鎧を
使っていたそうです (^。^) 。

今畑廃村