


神戸新聞より
十津川との出合い
十津川郷は明治22年の大水害で被災した中の600戸2691人が北海道へ移住する事となる。 神戸で船待ちの際には土地の方が手厚くお世話されたそうである。 年を経て阪神大震災の折、100余年前に受けた恩義に報いるはこの時と、北海道新十津川町は勿論、本家奈良十津川村も惜しみなく義援に応じたという話を後日神戸の方から伺った時にはあの日の光景がよみがえりことさら感動した。 震災の数日後にすでに来ていた北海道の給水車を見て、そのときは何も知らずに只感心したものだ。
震災の時私は野次馬根性を抑えきれず、神戸へ入る手立てに自営業の気楽さでボランティアを装い、自家用の2トン車に散水用の1トンタンクを借りて2基搭載、屋根の左右に黄色と紫の回転灯、両サイドのドアには馬鹿でかい赤十字のマークに緊急の文字、前面には医療給水と大きく書き、まけるな神戸!とまで書いたのは今振り返ってもこっ恥ずかしいが、その時はそれ程興奮していたのだろう。 身元がばれない様に事業所名はガムテープで隠した。
重い水は途中で貰って入れようと空車で呑気に大阪市内に入ると大停滞で阪神高速北津守は閉鎖。 殆ど動かない43号線だがパトカーや救急車、消防車だけには高速のゲートを開けている。 ラジオでは相変わらず『こちらは東神戸病院です!手術用の水が足りません!どなたか水を!』と流している。 お〜し 1か8かだっ! ラジオのボリュームを目一杯に上げてゲートの職員さんに、お聞きのように人命に係わる事なのでと嘘ぶき、回転灯を回し、赤テープで網目に覆ったヘッドライトを点滅させた。 ゲートは嘘のようにあっけなく開き、途中で橋が無くなってるので気をつける様に言って送り出してくれたが情報の混乱で、この区間の橋は大丈夫だった。
信じられない! 医療の文字に赤十字の威力か。 まぁなんでもいいか!偽者だろうが張ったりだろうが水さえ届けば文句はあるまい! 西宮は被害が比較的少なかったが2トン(ドラム缶10本分) の水を容易く貰える筈も無く思案の末、自衛隊の給水車にくっついて行き西宮浄水場で取水。 自衛隊は3人掛かりで1トンの水を運んでいたので気分は最高 ♪ そしていよいよ神戸へ。 救援物資輸送車でさえ2号線以外は通行止めだったがド派手な私の車は警官の誘導で通して貰えて赤信号もフリーパス。 といっても次の信号からは消えていたが。 人生の中でこれ程の爽快感を味わった事は後にも先にも無い。
煙の漂う薄暗くて寒い神戸を逃げ出し東へ向かう人の列が延々と続く2号線を避け、倒壊した橋げたを潜り火花の散る電線をかいくぐり、道を塞いだ屋根瓦を乗り越え、殆どの木造家屋の倒壊した東灘の病院に着くとロビーまで横たわった怪我人で一杯、まるで映画の野戦病院さながらだった。 ここでは多くの御遺体が毛布1枚掛けられたままだ。 倒れずに残った丈夫な建物のガラス越しに揺らめくローソクの傍には頭から毛布を掛けられた付き添う人とていない多くの犠牲者が・・・ 合掌
病院の地下タンクに繋がれた塩ビの仮設パイプへコック全開で放水した。 雑誌記者が車を撮りナンバーを見て『タイトルは○○の水だな!』などと勝手なことを言っていた。西宮の水やっちゅうねん! 線路がぶらさがった阪急電車のガードをすり抜け六甲の山腹を上り下りしながら2度目の取水に西宮に着いたら夜中で、さすがに係りの人も不眠不休で倒れたのか、取水は各自で行いカルキを定量入れて下さいと張り紙がしてあった。 地下タンクに投げ込まれているドデカイ水中ポンプのスイッチを入れると、ぶっといホースの反動でこけそうになったが10秒程でタンクが満杯になった。 カルキも分量に気を付けて入れたが・・本当にこんな事してもいいのっ?
夜が明けて東灘へ戻ると病院には他の車も来ていたので通りすがりに頼まれた近くの幼稚園へ行った。 多くの人達が避難していたが、指定の避難所ではなく食料も水も無くて困っていたらしい。 すぐに車の後ろに長い行列が出来た。 手にはコップ、ペットボトル、鍋や洗面器、ビニール袋で水を受ける方も居られた。 飲料以外に使ってもいいの? との控えめな問いは少し切なかった。 洗濯にでも何でもご自由に・・・。 車に書いた 負けるな神戸!は好評だった。 こうなれば野次馬で来た事だけは悟られないようにしなくては・・・ だが小さな女の子に『おじちゃん明日も来てくれるの?』と聞かれ二つ返事で約束してしまったのは我ながら不覚であった。
何日目かには自衛隊の給水車や食料が届くようになったが3日目の夜中に無性に風呂に入りたくなり自宅へ帰ったものの風呂から上がるなり食糧を買い込みすぐに引き返して足掛け6日間神戸に釘付けされたほど強烈なドラマの中にいた。 だが1枚の写真も撮る事が出来なかった不甲斐なさには自分でも呆れるが、寒さに震える大勢の被災者を横目にヒーターの効いた車内で『タンクが空になったら起こして下さい』と張り紙して寝ていた野次馬の呵責だったのかも知れない。
当時悪名高かった神戸の暴走族もこの時は紙オムツなどの救援物資をバイクに括り付けて走り回っていたし、家が倒れずに残ったというおじさんがオニギリをいっぱい作ってきて配っているのを頂いたりもした。 西宮病院の事務をしているという東灘のお嬢さんは、私が偵察してきた不眠不休の職場の状況を告げると、自分も家族ぐるみ被災しているのに、行けばいつ戻れるかも知れない戦場のような病院へ着の身着のまま歩いて行くと言って間もなく避難所から姿が消えた。 女神のような後姿が薄暗い廃墟の町に霞んだあの光景は夜明けのまどろみの中での夢か幻想だったのか・・・
警察機能がマヒ状態であったにも拘らず、平素以上に治安が保たれたのは極限のその場に居る者にはごく当たり前に思える程人々は優しくも逞しくもあった。 十津川義士の存在を教えてくれたのは慎み深い郷人からではなく他ならぬその神戸の人だったのです。私はそれ以来、清盛公が拓き多くの一門と共に眠る神戸を愛しそこに暮らす人々そして十津川の人達への憧れにも似た親しみが消えないのです。
2005年 夕陽の衛兵
1995年1月17日午前5時46分発生、死者6433人、負傷者4万、25万戸の家屋が全半壊及び焼失した。

