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この数年で無人となった集落。 ここには1枚の田んぼも無く炭焼きをしたり、野菜や薪を売って生活した時代の話を出身者から聞いた。
この谷は雪が多く冬ごもりを余儀なくされたそうである。秘境ではあるが城下までさほど遠くないのが唯一の救いだったのかも知れない。

滋賀の廃村

平家の落人

琵琶湖を望む人家とて無い山頂近くとり残された唯一基の墓と寄り添う五輪塔の片鱗が平家の落武者の哀愁を物語る。 この少し下の植林帯には、水もままならないだろうに何段かの棚田跡らしい地形を留めているのがより哀れを誘う。 いかなる執念が生きる極限を支えたのであろうか。
これは推測というより願望でもあるのだが、近畿に於ける他の落ち武者部落の子孫と同じく徳川方で転戦、井伊家に仕官が叶ったと ・・・ついハッピーエンド妄想に耽ってしまうのでございます。  
                                              合掌  
                                                       
      
平家の落ち武者 県境の伝説


滋賀県境に近い岐阜の田舎町で平家の落ち武者伝説を聞き奥地へ足を伸ばしたが集落にその雰囲気が全く無い。 訪ねた寺は浄土真宗でそこには墓が無く何の手がかりも無かった。 婦人の話では、昔この辺りからよく出た五輪塔を後世の入植者が漬物の重石に使っていたらしいと、そこへ和尚が昔は山芋を掘っていたら五輪塔が出たとかいう話をよく聞いたが今はもう何も無いと話を絶たれ、村人に聞いた墓の存在も否定された。

信長による天台宗掃討の犠牲になったのか、それとも徳川方に付いた為、秀吉に滅ぼされたのか定かで無いが真宗門徒(秀吉方)の入植以前は平家の落ち武者部落だったという。 戦国の対立宗派は歴史とともに墓をも葬り去ったのであろうか。 秀吉に蹂躙されながらも徳川の代に復活し地士となった平家郎党の子孫の村は近畿に数多い。 山間僻地の僅か10数軒の集落に秀吉による浄土真宗と徳川の代に再建された浄土宗や真言宗の寺が両立することが珍しくない。 この地も探せば必ず五輪塔が出ると見たが・・・愛想のよい婦人に見送られて止む無く村を後にした。 

三重県へ戻り自己流の法則による垣内の地名を訪ねたがそこはコンビニがあるほど開けた場所で誰に聞いても伝説は無いという。 垣内が地名になったのは後世で事の始まりは800年以上も前とあれば無理もないが私には確信めいたものがあった。 この辺りも元は天台宗だったが、焼き討ち(一向一揆?)に遭い浄土真宗に宗旨替えされたとかで、どの墓にも昭和以前のものは無かったが最後に訪れた墓地の片隅に置かれた五輪塔の片鱗で法則が証明された。 

そしてそこに居並ぶ真新しい数基の大きな墓に初めて眩いまでの揚羽蝶を見た。 だが、こんなに開けた日の当たる場所での立派過ぎるそれには最早落ち武者の哀愁は無く、私には余りにも眩し過ぎ覇者の如き威厳に圧倒され、逃げるようにその場を去るしかなかった。 やはり平家は滅亡八百有余年、在りし日の栄光を彷彿とさせ、秘蝶が故に漂う哀愁、敢えて日陰にあって負の遺産を気取るのこそが平家郎党の子孫にとってのロマンであり滅びの美学なのだ。 去る前に墓地の片隅に忘れられた五輪塔の片鱗にもう一度手を合わせた。

図書館で、以前峠の向こうで揚羽蝶の家紋の付いた萱葺きの家を見たという話を聞き込み、すぐさま県境の山を超えた。 滋賀の山間には萱葺き屋根に家紋の付いた家が多かったが半日探しても見つからず、平家の落ち武者伝説も聞けないまま日が暮れた。 彦根の近くで『河内の洞穴』の看板が目にとまり引き寄せられるようにその谷に入るが途中何箇所かの墓地も例に漏れず新しい墓ばかりだった。 

かなり奥の鍾乳洞の傍には別棟を持たない母屋だけの萱葺き屋根の民家が寄り添っていた。 先入観は禁物だが鍾乳洞は落ち武者が潜むのにはにはうってつけだしいかにもその雰囲気だ。 車を止めている薄明かりの灯った数軒の民家からは物音ひとつしない。 そこから奥へひどく狭い真っ暗な谷間を進むとヘッドライトに浮かぶ数軒の無人の民家の傍にまるで手製の神社と祠 その奥にも神社と無人の民家と祠がある。

どこから見ても時代に見捨てられた落ち武者部落でしかないが暗がりでさすった墓はごく新しいのでやはり浄土真宗か。 諦めて鍾乳洞まで戻ると外灯の明かりにほっとする。 もう少し戻ったところに古刹があった。 一段高くてライトが届かないが何か小さなものが無数に置かれている。 鳥肌を立てにじり寄ると薄明かりに紛れも無い見えるだけでも裕に100基を越す小さな五輪塔だ。 この寺は天台宗でなくて難を逃れたのであろうか。  祭られるでもなしに置かれた五輪塔郡は何を物語るのであろうか。

人里まで戻り通り合わせた犬の散歩中の方の御先祖は井伊家の御家中で色々話を伺ったが平家の落ち武者伝説は聞けなかった。 コンビニのご主人も戦国時代の話をして下さった。 この辺りは関が原の合戦で破れた薩摩の島津候が少数騎で敵陣の中央を突破して勇名を馳せ、山越えで逃れた伝説が余りにも有名で最近も由布院の少年隊の行進が行われたという。 反徳川にして取り潰されること無く栄えた所以であろうが悲しいかなこの奥の集落はやがて消え去る運命なのかも知れない。 後世の華やかな伝説の陰に埋もれてしまった平家の落ち武者伝説のように。

                                        
               2004年   夕陽の衛兵
 
寺とともに焼き討ちに遭い集落ごと移転したという地区近くに室町時代の城跡がある。


 北勢 垣内遺跡
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