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平家の残党と周辺の村々

大野城跡付近より俯瞰 
手前が海南市街

 左後方が和歌浦
中央の名草山の向こうに
        和歌山市街
 右後方に春霞の和泉山脈

岡ノ坊跡から見上げた
      鏡石山北面

風化したお地蔵さまと
小さな五輪塔が祀られている

長峰伝説

文書によると、平家没落の砌(みぎり)中将資盛(すけもり)一子盛綱、三州(愛知県)府中之庄、松尾今宮の城主であったが未だ幼年なりしを家臣所縁の紀州加茂に難を逃れ山内に蟄居(潜伏)、 成長に及び名を改め古道を望む村の山頂に小城を築き松尾城と号し代々庄内に領知せしめてより十二代の後、秀吉の紀州攻めにより討ち死、難を逃れた一子が徳川の代に至り再興、周辺郎党の拠り所となった。 

一門は戦国時代より徳川方に味方、秀吉と対峙した小牧長久手の合戦の折、後攻めを要請され紀州36地士の代表として渡辺藤左衛門(根来党傭兵部隊長か)と共に岡崎城(愛知県)へ出向いた盛綱の裔、本多平八郎忠勝の披露で家康公に謁見、領地安堵のお墨付に印形を頂戴したとある。
(南紀徳川史参照)

決戦大阪夏の陣では本陣の家康公までもが真田の一文字攻めで自刃寸前の激戦。 また資盛の兄維盛(これもり)摘孫、十津川の弟君の討ち死になどからしても根来衆の被害が想像できる。 戦史には敵味方共に名将真田幸村を日の本一のつわものと褒め称えたとあるが幸村自身も討ち死にしている。 根来衆とてここに倒れて武門の本懐、後世の語り草となったであろうが子細は定かでない。 だがその犠牲と働きは根来衆が徳川幕府の鉄砲組や毛利藩・浅野藩等諸藩に召抱えられたことから窺がえる。  8代将軍吉宗公の代より以降大奥警護のお庭番をも勤める事となる。

                                                

 秀吉の紀州攻めにより落城した松尾城跡
                      
   (非公開)

村の山頂の広々とした城跡からは熊野古道の向こうに紀伊水道が一望できる
近年風力発電施設とともにコスモスパークとして整備された鷲ヶ峰山頂からは徳島が霞んで見える。
鷲ヶ峰山中の窪地に佇む数軒の村


風車のあるこの集落は平家の落ち武者1世の開拓村の宿命をたどり僅かに残る数軒は高齢者ばかりで廃村の危機に瀕し歴史を消された隠れ里独特の哀愁が漂う。 

戦国末期、秀吉軍に寺(根来の末寺)を焼かれ後年出土し祀られていた五輪塔と一部欠損したお地蔵様は転出に伴い最近麓の名刹へ納められている。

紀州攻めに抗した十数名が自刃したといわれる塹壕近くには昭和の頃四国から来たという謎多き僧の托鉢と義篤き石匠による観音像が祀られているが、最近出来た周辺の宗教色の濃い造形物とは不釣合いで違和感が否めない。

        かくれ子伝説


有田川から仰いだ長峰山脈の南端鷲ヶ峰山頂と2峰の間、急峻な崖の上に梅雨期には天然の水田になるという狭い湿地があった。  地中より掘り出された墓のあった長老のお宅に言い伝えられてきた平家の落ち武者伝説でこの湿地を 「かくれ子」 と呼び、原弥十郎、石谷藤馬等に連れられ三州から落ち延びた松尾城の幼君の記録とぴったり符合し小気味良い。 

ここから東側へほんの少し下った所にも同時期に出来たと思えるもう一つの集落があり近年私の故郷のお寺へお地蔵様と共に預けられた石塔は四天王寺所縁の鑑定士によると南北朝のものより古いと言われ、最近道路工事の際にも焼き討ちされた真言宗の寺跡周辺からも五輪塔が出たという。  

この村の旧家にも 「かくれ子」 と同じ平家の落ち武者伝説がある。 秀吉の宗教改革により村には古い墓がないため江戸時代の入植村ではないかとされてきた異説が完璧に覆されたのは愉快極まりないが、たとえ負の遺産、歴史の教訓とはいえ平家の落ち武者伝説を秘してきたこの村も高齢化が進み一抹の寂しさを覚える。

風車のあるこの集落はまさしく隠れ里で道路からは殆ど見えない

今は荒れ果てた前面の水田の多くが、戦後の農地改革(アメリカ占領軍マッカーサー元帥指導による)によって小作人に払い下げられるまで山を隔てた松尾城の幼君後裔の所有地だったという。

かくれ子伝説直下の村

「かくれ子」と呼ばれる崖の上の湿地

この村の山頂付近 「小屋の谷」 にある古池は江戸時代、藩 (幕府?) による五右衛門普請 (ごえもんぶしん=貧乏侍救済策? ) で出来たといわれ興味深いが記録がなく子細は定かでないものの藩の庇護が窺える。

平家の落人

平家の落人

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 2006年   夕陽の衛兵

                  平家の落ち武者  古道の秘蝶



海南市のお寺で鐘を撞き終えた和尚が山の向こうの熊野古道に珍しい伝説があると教えて下さった。 その一族は神社と火葬場まで持つという。 初めて耳にする話に確信めいた何かを予感したが和尚もそれ以上はご存知なかった。 早速現地を訪ね和尚から聞いてきた事を申し上げ私の出自 (たぶん敗残逃亡兵の子孫で、祖母から伝え聞く追い剥ぎ伝説 「寝ていて食われる白髪畑」 などから推測するに、余りろくなもんでは無かったと想われますが、南北朝の頃4人で今の村を開墾したと伝わり、最大時80軒あったと言われる村には家紋が4つしかありません) を明かすと御当主自ら火葬場まで案内して下さり恐縮した。

神社は明治になって他へ合祀されたそうだが三昧(さんまい=火葬場)には小さなお墓と風化した古いお地蔵様が祀られ、御当主の父君も先年古式に則りこの三昧でダビに付されたと仰った。 まさかと思い恐る恐る尋ねた家紋が郎党の子孫にとってまさに究極の揚羽蝶であった。 遠い先祖が仕えた主の末裔がまさかこんなに近くの村におられようとは・・ お聞きしたい事が山ほどある筈なのに蝶コンプレックスの私は只お礼を申し上げる事しか出来ずに失礼した。
 
集落の墓地へお参りすると御当家のお墓はたいそう古く家紋を付けず、それがより伝説を物語りまさに秘蝶であった。周りの墓に資盛(すけもり)卿の兄維盛(これもり)卿の郎党と同じ家紋が多く親しみを覚えた。 道端で出合ったその紋のお宅のお祖母さんが昔話を聞かせて下さった。 ご先祖が根来衆として月に2日和歌山城へ出仕した話などは特に興味をひいた(後日歴史資料館で、重臣だったこのお宅にも古文書がある事を聞いた)。 

町の近くまで降った所で直感的に足が止まった。 小松の内大臣重盛卿 (維盛、資盛、清経、有盛、師盛、忠房、宗実、重真、行雲、清雲 の父で清盛公の嫡男) 所縁と思しき地名があるが所以は定かでない。 近くのお寺を訪ねると古い五輪塔の傍に山上の秘蝶のお宅と同じ家名のお墓があった。 和尚に教えられ訪ねたお宅の庭先で眉目秀麗の奥方にお目にかかれて揚羽蝶のご一族と伺い当然の如く硬直してしまった私はそれ以上何も聞けずにお礼を申し上げて退散した。 後日御当主にお会いさせて頂く機会を得て800余年の秘蝶の由縁に触れさせて頂き感無量であった。 

清盛公より15代後の天正年間秀吉の紀州攻めの際、一族の党首は美名を尊び討死、(秀吉に抵抗した紀州の36地士に共通し、維盛卿の後裔も同様だが家康公の『お墨付き』に依り全てを子孫に託したのであろう、やはり武門は散り際か!)。 後に資盛卿後裔の嫡子が火葬場を持つ山里を分家に託し、この地に居を移し紀州初代藩主徳川頼宣候より明治に至るまで禄を賜り周辺に点在する郎党の拠り所となった。 

山を越えた私の故郷の村に独特の江戸訛りの方言が残っていて、それは根来衆に日の差した吉宗公からの良き時代のお庭番や鉄砲100人組勤番など華やかな江戸との行き来をつい想像させてしまう。 山中に隠れ子孫の再興を夢見て開墾に命を燃やし、はたまた戦場に散った数多の御先祖も二本差しで晴れやかに東海道を行く若き勤番兵士をさぞや喜んで見守ったであろうと・・・まったくの空想ではあるが。

江戸の旗本にも揚羽蝶の家紋が相当数使われていたようだが血縁は明らかにされていない。 大名の中には資盛卿の後裔である織田信長公に拝領した池田輝政侯の揚羽蝶などもあり所領鳥取の寺の紋に残る。 平家の末裔は隣近所の人でさえ知らない場合が殆どで家紋も通常は替え紋を使うそうである。 
平家嫡流(維盛卿所縁)の家紋は浮線蝶(正面向き)で傍流は揚羽蝶(横向き)である。 江戸時代書かれた公の文書にも、れっきたるものとあるが出自は臥せてある。 それが朝敵の汚名を着せられ歴史の表舞台から消えながらも郎党が根来衆として奮戦し、戦国の最盛期には72万石にまで勢力を伸ばし秀吉に滅ぼされながらも直系の血脈を延々800有余年繋いで来た平家の平家たる所以であろう。

辞書その他岩出市史などの文献によると根来衆はもともとは自衛の為、全国の落ち武者を集め南北朝より勢力を伸ばし戦国時代には鉄砲の製作に尽力したが信長に抗し秀吉と戦い破滅、後に徳川幕府や紀州徳川家の鉄砲組として仕官したとあり、また毛利家に鉄砲を持って仕えた者も多かったとある。 
(因みに、生家=父方と同姓が広島に集中し、毛利家が国替えとなった山口県にも多く見られ、また関が原の合戦の後、浅野家が和歌山37万9千石に封ぜられるも夏の陣の後広島42万石へ国替えとなっている事も一族展開上興味深い。)

この周辺の村でも平家と根来衆は密接に繋がっていた。 古道を登りかえし、紀州平野を見下ろす長峰山脈の先端に北朝方、紀伊の国守護職山名義理(よしまさ)の築いた大野城址があるが、以前は南朝の砦であったとあり、常に南朝方にあった平家の残党を思いおこさせる。 その稜線を東へ辿ればひときわ高い鏡石山があり、坊舎跡の多い和泉山脈から護摩壇山まで一望でき、狼煙を上げるにはうってつけの山である。 名の由来どおり昔、山頂の鏡のような大岩が光るせいで魚が獲れないと、名高(海南)の漁師が煙で燻したという話を祖母から聞いたことがあり、子供の頃は故郷の自慢の山で遠足に行ったりもした。

*(紀州最高峰の護摩壇山の名の由来は維盛卿が熊野山中を転々潜居し上湯川へ落ちつく直前、平家の盛衰を占い護摩を焚いたことによると竜神スカイラインの案内板にある)

その北面、海南市の山上の村に南北朝から戦国時代にかけて拡大を続け最大時2700ヶ寺あったといわれる根来の僧兵(岩出市史によると僧兵といっても鎧兜に身を固めたザンバラ髪の兵士で最大時は2万を越えたとある)の坊舎(砦)跡があり、岡ノ坊、とうなん院、わごう院などが地名に残る。 また院名不肖の寺跡もあり一説には7ヶ寺あったともいわれる。 秀吉による紀州攻めで焼き討ちされた坊舎跡には数基の五輪塔やお地蔵様が祀られてねんごろに弔われ、そのお宅のご先祖の裃(かみしも)などから根来衆として報われた徳川の世が想像できる。 この村は山頂付近まで大昔の棚田跡や小さな池の跡があり、一門の再興をひたすら願い開墾した先人の執念を物語っている。

主をなくした平家郎党の子孫がそれを明かす事で拠り所として来た村も全国各地にあるがその心情は察して余る。 一部の評論家や史学者に否定された平家の落ち武者(郎党)部落でも僻地の農民には無縁の古い五輪塔や宝篋印塔(ほうきょういんとう)または古文書などにより真実が証明できるが殆どの場合それすら秘して明かさないのも歴史の教訓として頷ける。  
祖を同じくする奈良十津川村の後裔は南北朝より事あるごとに朝廷に仕え表舞台で活躍出来たのは異例中の異例であるがこれぞ一門の誉れであろう。


                                                                 2004年 
夕陽の衛兵

望郷 長峰伝説

紀州徳川史によると、御庭番の始まりは根来衆(組)の薮田助八数直ですが
                      ウィキペディアでは何故か薮田定八となっています