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紀州 那智沖の山成島で偽装入水する維盛

平家の秘蝶・維盛

ひちょう        これもり

紀伊国に流亡の古跡を訪ねて

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高野山の夜は雪どけの水が流れ、うっ蒼とした古い杉が空をしのいでいた。 無数の星はまたたいて冷え切っていた。 深い森の中の寺々より聞こえてくる読経と鐘の音に、時に仏法僧の鳴く声も混じってくる。 滝口入道は墨染の衣の中に、数珠を片手に維盛の下座に座ってしばし話を聞き・・・、数珠をつまぐりながら拝む態にて、しばし、無常の風が二人の顔を撫でていた。 

久しく合うていなかったので、絶えてのご無沙汰を謝した。 滝口入道を頼ってこの霊場でお目にかかれるとは、殊のほか思いもよりませぬに・・・、と涙を瞼に浮かべながら、いろいろと合戦や未来を語り合う。 これもすべて因縁でござりましょう。 滝口は目をつむり、「コシムケイゲムケイゲコムウクフ」 と小さく唱えながら、「心にこざわりがなければ恐ろしいものはございませぬ。背信の罪もありませぬ。人間は順境の時もあれば、また逆境のときもございます。わたくしは煩悩の極限のなかで生きて参りました。御殿、今はもう逆境を逆手におとりなされ」 と元気づけた。       

滝口はおもむろに言葉をついで、私の弟子、若いがしっかり者、石童丸を案内させましょうと、石童丸を紹介した。 外庭は少し明るくなった。 東の空に半弦の月が山霧に濡れておぼろに浮んでいる。 北東の空明かりに葛城、金剛の山脈がかすかにつらなる。 維盛は思いなしか京洛(京都)の空を眺めている様子、滝口入道は頭をさげて維盛に向かい、平家ゆかりの地、熊野三山へ逃れることが良策であることを説いた。 

剃髪して修行僧に偽装されるように、よもや天下の人も平家嫡男維盛と思う者もない、明日東禅院の知覚上人に頼んで「ご剃髪の儀」をお願いすることをすすめた。 維盛はハタと膝をたたき、「いろいろと配慮かたじけない」と落涙した。 明日は奥の院に詣でて”剃髪の儀”をすませようと、早速出立することに決まる。 

翌日はきりも晴れて、紀ノ川は蜿蜒と流れている。 高野の寺々も静かで、東禅院のすき間風、春とはいえど冷たい山気が洩れてくる。 修行僧に扮した維盛には、未来幻想が開かれたかのよう。が、顔は死人のように蒼白く、髪も乱れてやつれた姿の維盛であったが、共の重影の凛としたはげましの言葉に心もなごむ。 だが維盛は旅の疲れか、また、気のせいか、ふと堂廊に出た、星が流れた、東の空はもうかすかに天をかすめるかのように白くなって、明けの明星がもう西に輝いていた。

朝が来た、空に日がのぼると、大和紀伊山脈の連山は山霧の中に聳え、神々しいほどに黄金の連峰が波をうたせていた。 何ときれいな景色よな、と維盛は寝不足の顔をして、重影に起きて見よと言葉もやや力をこめて、大自然の中に抱かれてげに無双の朝だ、今日は余の発祥の日であると言いながら、腰の「小烏丸」を抜いてキラリと見せた。 

”ああ、平家の嫡男という重い荷を下ろす日である”と晴れやかに、共の重影に言い聞かせるよう告げた。 剃髪の儀は行われ、蝋燭がともされて香煙がしずかにゆらぐ。 法衣の印導師、手に払子を持ち、銀白の毛先は左にたれて、右手に払子をふる。 浄目の意である。 手にかみそりをもって、東禅院の知覚上人はおもむろに「剃除須髪 当願衆生 永離煩悩 究境寂滅」 を三回くりかして剃髪した ・・・・・略

髪が下ろされていた。 頭が真二つに割れたように冷やりとした。 重影も同じく剃髪して、たがいに顔を見合わせた。 もう寺の外では高野参詣の人々の気配でざわついている。 堂内は冷気に満ちて、上気した気分も少しやわらいだ。 もはや剃髪して修行僧となった維盛主従は、先ず高野奥の院へ参り、香煙有難く合掌して滝口入道と別れを惜しみ、重影、案内役の石童丸、舎人(とねり)武里をつれ、在田川(有田川)の上流の鬱蒼たる杉木立の難所を忍びながら、再び高野より紀ノ川を下り、山東、藤代ではるか蒼海を眺め、湯浅の庄に入り、湯浅党の湯浅権守宗重の子、宗光に発見され、どうなることかと思ったが見逃される。 

田辺より中遍路をとり、岩田川(今の富田川)に沿うて一里余、山の鼻に滝尻王子〜五体王子があり、その昔、重盛の熊野詣でに滝尻の御宿で、「王子の御前に通夜し給ひ、後生をぞ祈り申されける」 (「源平盛衰記」)また、 生まれては終に死ぬてふことのみぞ定めなき世に定めありけり  との一首を詠む。 この時重盛は一切の妄念を去り、死生観を得て大悟の境地にあった。 彼は胃病を患い、余命幾ばくもないことを知っていた。 

「源平盛衰記」 に平維盛の歌がある。 いはた川誓の船に掉さして沈む我が身も浮びたるかな と、恐らく熊野落ちのときであろう。 維盛は深山幽谷の熊野街道を祖父、父の歩いた道をなつかしみながら、近露、岩上王子を経て本宮に着いた。 山霧も立ち、鳥はさえずり、御幸道には王子社があったが、山蛭、まむし、だにが多く、昔は猿、鹿、猪や山深くには狼がいた。・・・・・略

歴史では代々御幸は紀伊路で、伊勢路は伊勢参宮の道筋であった。 伊勢路に王子はない。 伊勢街道は険阻なため船路をとった。 清盛も伊勢、多気、相可、野後、荷坂峠を越え、船便で長島、尾鷲、新宮、そして那智へと達している。 ・・・・・略



                    維盛の入水                   

維盛、重影主従四人が中辺路を経て音無の里、本宮大斉原の社殿に参詣して熊野川を下り、新宮速玉神社に詣り、那智山八丁坂をのぼって平家一門の館、尊勝院で草鞋の紐を解き、ひそかに一部始終を院主にうち明けてやっと落ちついた。 夕闇迫る頃、大滝を拝んだ。 轟々と滝壺をゆるがせる音が胸に迫るように響いてくる。

翌日身を浄めて神社に参詣した。 もう参詣者の中に山伏姿の者、僧衣の者、その他善男善女が詣でていた。 山伏衆の中には、声を挙げて 「那智のお滝が見えたぞ」 とさけぶ者もいた。 さすがに滝は古代杉で見えなかったが、参道を登った中ほど、杉並木の間から勢いよく落ちる白い大滝の姿が見える。 両側は千年も経っているであろうか、大きな杉が空をつくように亭々と繁っていた。

ついに目的の那智に着いたのである。 大きな石段下からも一行が登ってくる。 「六根清浄、六根清浄」 声に張りのこもった山伏の声、声、錫杖の鳴る音、無垢であるべき白い装束も大分汚れている。 野宿をして参詣する者ばかりである。 熊野古道は大遍路、中遍路、高野街道、十津川街道、北山街道などの山道も修験行者の往来する道なのであった。

維盛主従がたどった熊野街道は、片道最低十五日、二十日もかかって宿駅で泊まる者、野宿をしながら旅する者などがあり、山伏はおのおの組を組んで参詣した。 「明月記」の作者、藤原定家が熊野へ難渋して到着した状況を、「感涙禁じ難し」としるしていいる。 那智の滝は勢いよく千丈落下、うっ蒼たる杉の中に白い滝が昼下がりの日を浴びて山にこだまして響いてくる。

ときどき登ってくる一行の山伏も、錫杖を立てて眺めてはまた登ってくる。 那智山には沢山の山伏がいた。 一の滝、二の滝あたりの修験の行をしているらしい。 境内の桜も散りそめて、法螺貝や錫杖の音にあわせてハラハラと散る風情の中に、掃き浄められた大広前もおごそかに見えた。 維盛はその昔、熊野三山は平家信仰の霊山で、仁安二年九月、後白河上皇の女御(清盛義妹)であった平滋子の熊野御行をはじめ治承二年五月、父重盛熊野参詣などのことなどを思い浮かべた。

前世の因縁により、都に遠い熊野で生き永らえることを心にきめ、滝口入道 (「平家物語」には同伴とある)と別れる。 僧衣に身をやつした維盛は、重影と石童丸、武里をつれて熊野中遍路をはるばる那智山にたどりついたのに、もうこの身のことが発覚したのか、維盛熊野落ちの噂がこんな草深い熊野の遠国にまで知れていると聞き、しみじみ世の無常を味わう。

御山を出て那智街道を下り、浜の宮(王子社)補陀落寺(ふだらくでら)にまで足は重く、やっと日暮れにたどりついた。 春はおぼろの月が熊野の海に松林ごしにかすかに見え、波の音は絶えず、誰の心にも哀れに聞こえてくる。 途中、田舎家に寄って葛湯に腹を満たし、海辺近くの補陀落寺の門をたたく。 小僧出て来た。 

夕餉頃に恐れ入ったる次第でござるが、われわれ四人のもの、ぜひ老僧にお会い申したき儀、何卒お取次ぎを・・・・・、拙者らは実は修行僧でござる。 よろしく頼むと。 やがて奥の間より痩せたる媚雪の老僧が出て来て、一行を本堂に招き入れる。 小さな灯芯がゆらめく暗い堂であっるが、香を焚いた後の匂いがまだ堂にただよっていた。 住職曰く、今から五十年前(天承元年),高厳上人が渡海を願い出たこと、その他補陀落寺のいわれをつぶさに話してくれた。

しばらく四方山話をしていたが、実は、と重影は膝を乗り出して、老僧の近くに口をよせて、「この方は」 と指さして 「平家の小松中将維盛卿で京より都落ちの後、八島の合戦中、世をはかなんで逃れ出で、高野にて出家、平家信仰の熊野三山に参詣、ここを最後と決心してこの補陀落寺をたより、海に出て入寂が身の冥加と覚える。 何卒身の置きどころなきわたしどもの渡海願わしく、よろしくお取りなしを・・・・・」と申し上げた。 

老僧はやがて口重たげに語った。 「三位維盛卿でござるか、おやつれの顔を拝見してまことにお気の毒な次第でござる。 ご出家のおん身になられたはよくよくのこと、合戦ばかりの現世をお諦めなさりしご決意のほどおいたわしく思いまいらせる。 お知りか知らぬが持統天皇六年、大津皇子は謀反の罪にて死を賜り、皇子は次の詩を残された。

それは(懐風藻)に、金鳥は西舎に臨み  鼓声は短命を催す  泉路は賓主無し  此の夕誰が家にむかふと、これは臨終の詩でござる。  ただ今の三位中将のお心と同じと存ずる。 勝敗は兵家にもわからぬこと、とくにご出家のおん身、この夜はとくとお考えあって、しかる後にどのようにも取りはからい申すべく・・・・・」

小僧が出て来て夕餉の膳をささげ、丁重なるおもてなしを受けた。 夜風に波の音ひびきて、主従四人、夜をしみじみと語り明かした。 翌朝早く本堂に老僧来たって仏前に沈思黙座し、しばらくあって読経、山べより小鳥のチチと鳴く声も聞こえる。 空は白みて東の海を赤く染め、太陽が岬の上より覗くかのように登った。 海岸の山辺は緑滴るばかりの新緑に、岸辺の松林から蒼海が開けている。

読経と鉦の音がかえって主従四人の心を慰めるかのように聞こえた。 終わりて老僧とともに粥に一汁一菜のおもてなしをいただき、老僧から来世の億万浄土のことなど語り聞かされた。 現世のかえすによしなきことをさとされ、明日の現し身も無にありと説かるる老僧に謝し、有難くも早や用意されたる小船に向かう。

舎人の武里に、「小烏丸」 という太刀、すなわち平貞盛が朱雀天皇より賜り、以来、平家の嫡男へ代々伝わるもので、九代目の維盛が持参していたその太刀に、走り書きの遺書を添え、必ず八島にいる弟、資盛へお渡しあれとさし出した。 武里は維盛に従うことを許されず、涙流して今生の別れに名残を惜しみ、太刀と遺書とをお受けした。

そして生命をかけて必ず資盛殿(わが子六代と記している説もある)へ渡す旨申し、惜別の情絶えがたく袖を目にあててうつぶし、悲しみの涙止めどなく、そぞろ情けの悲しさに声を振りしぼって泣けば、老僧はおもむろにその肩をたたいて舎人を励まし「維盛殿のご決意もあり、その使命を達せよ」と諭され、ようやくにして舎人も心が落ちついた。

やがて維盛主従三人は、一葉の小舟に乗り、用意の二人の寺男の引き舟に引かれ、浜の宮王子社の前の白浜から一隻の小舟に乗り、他の二隻の送り舟につかれて万里の海原へと漕ぎ出でた。 旧暦三月二十八日は、今の四月終わりに当たり、とくに南国のこととて海上は霧がかかって暖かく、またおだやか、黒潮のかげほの見えて、紺青の潮きらめく中を舟は行く。 

この海原のかぎりなき大自然に言いつくせぬ愛情と惜別があふれ出た。 やがて昼を過ぎ、弁天島を右方に見ながら大勝浦を迂回し、絶壁の山成島へ漕ぎ寄せさせた。 一先ず維盛は岩にはい上がり、茂る林に大きな松の木を削って辞世の歌、 生まれてはつひに死ぬてふ事のみぞ定なき世の定ありけり 『祖父太政大臣平朝臣清盛公法名浄海、親父小松の内大臣の左大将重盛公法名浄蓮、三位の中将維盛法名浄円、年二十七歳、寿永三年三月二十八日、那智の沖にて入水す』 と書きつけた。(「平家物語」その他「熊野歩行記」)

風は東風にかわり、島におし寄せる波頭はやや激しくなり、西の方、夕空も雲足が速くなる。 春の疾風らしく、二人の舟人にはこのところで投身すると見せて、今生の別れを告げた。 手に手に惜別の情黙しがたく、夕陽迫る海上をはるか二隻の送り舟は消え去った。 

主従三人、波涛風をうけて岩かげに身をかくし、用意の品々を出し、また島に寄せた枯れ木を集めて火をつけ、夕餉をともにいろいろと行く末、往生のことなど語り合った。 途切れ途切れに話す言葉も波の音に消されながら、体を相寄せて話し合いをした。 一度は死を決心しながらも入水して成仏するか、餓死するか、あるいはもはや死せる維盛主従が成仏し、生まれ代わった化身となり、生き永らえるか、何れかを選ばんこと。 

熊野灘の黒潮は、この山成島の沖を流れていた。 この島を洗う黒潮は、当時灼熱の赤道線に沿って西に流れ、東シナ海から急転回して沖縄、九州、四国の海岸を洗って紀伊半島を巡り、潮の岬から太地沖を経て北流する。 山成島に松や山グミも生えて、その下にダンギク、ノコギリシダやツワブキが叢生していた。 海燕も島かげの穴に棲んでいて、夜半にときどき羽音を立てている。 

波は夜光虫が光ってことに目覚しく、沖にもチラホラ漁火も見えていた。 残り火が少なくなると、石童丸は枯れ木を拾って、つぎ足す、火はめらめら燃えて潮の香も身に沁みる。 維盛は沖の漁火に茫然として見入りながら、なつかしさがこみ上げてくるのを覚えた。 あっ、人がいる、たすかる。 生きられるとだしぬけに思い出す。 うつらうつらしている中に、明星は東の空にまたたいて、もう夜もあ明けそめている。

まわりを見渡せば、陸地に那智妙法の山々は霞み、家の煙があちこち海崖に立ちのぼっていた。 沖にいた漁舟は知らぬ間に曲浦に消え去っていた。 どうも海流と風位の変化がありそうである。 北西風はやや東南風にかわり、潮騒は少し増して来たようである。 まだおだやかだが。 配流にひとしい死の島へ送りとどけられたせいか、危機の疲れか、「京の空は山のかなたや」 と、島に砕ける波の煙と海霧に、涙の顔を潮の香がただよい、潮の香の中に京の北の方や六代の顔が浮んでくる。

しょせんこの世ではお目にかかれぬ、ふたたび言葉を交わすことも出来ぬ・・・・・。 習いおぼえた経も途切れとぎれ。どッとうち寄せる波が消してゆく。 数日で飢え死にか、食わでは生きられぬ、時には波のうねりがきて島の中ほどで裂けんばかり。 荒むしろに三人は寄りそうて潮路はるかに白帆がほの見え、維盛は「生きたや 南無阿弥陀仏」と生への執着をはっきりと互いに心にしめし合わせて、「生きよう」 「ご案じなさるな、島の高い松の木を切ってでも、これをたよりに縋り泳げば、向こうの狼火山の磯へ着きまする、この手できっと」 と、重影が決意を示した。

石童丸も同意した。 死ぬる覚悟であれば何事も出来る。 水平線に二つの舟影が現れ、沖への漁か、見えなくなった。 ここは無人島であるが、釣り舟をつないだ跡がある。 波が寄せるたびに沢山の舟虫が荒波に消えまた這う。 山成島の絶壁の岩に白波が寄せて時に海燕が飛んでくる。 絶壁の孤島でもない。 祖父清盛殿の鹿ヶ谷始末に、謀反者俊寛が鬼界ヶ島へ流刑された。 それを思えば陸も近いからよい。 

島では魚が取れる黒潮に乗ってくる鰹も見え、時に雑魚も岩に打ち上げられて手づかみできる。 寒暖より雨風と怒涛が恐ろしい。 重盛用意の酒が椀にそそがれて、三人の胸をすこし和ませた。 重影が腰の太刀をぬいて島の上に這い上がり、枯れ松の木を切る。 数本で筏を組んだが舟のようにはいかない、ちょうど送り舟からもらった舟板があった。 遺書代わりの板か、また俎板代わりにもらっておいた三枚の板が役立ちそうである。 

重影は何かと器用な、また発明な、頭のよい人物であった。 腕が立ち度胸がある。 維盛にはうってつけの人物であった・・・・・。したがって重盛も、賢しいからこそ重影に維盛の生涯を依頼したのであった。 もう今は何とか孤島から逃れることの工夫ばかりに一心を集中した。 さて 「日本史伝」 には、「那智の海にて入水すると偽って牟漏郡内に匿る」 とある。 ・・・・・略

熊野灘は秋冬はおだやかであるが、春や夏になるといつも特有の時化いわゆる貿易風 東風、南風、東南風で荒らされ、狼火山や艶島の岩礁に、白波はいつもくだけていた。 重影と石童丸はかくし持ってきた米を、寺男よりの貰い水で、土鍋で、これも重影持参の燧石で火を起こして焚く。 岩間のツワブキをきざんで野菜の代わりにする。また岩場より波に寄せる魚を掴みどり、貝やキサゴ、磯菜の海苔や荒布をとり混ぜてお菜とした。 

なお沖で余生を楽しむ如くに朝日を拝み、また西方浄土に合掌して唯々生くるか、死ぬるかの思いになやまされつつ、食も細くなっていた。 維盛、天を仰ぎ、沖の鴎の声を聞いて、少しずつ生への心の動きをみ仏に祈り願うようになった。 いったんは死んだ者として、もはや過去の維盛ではない、もう一人の新しい人間として何とか生きながらえることを考えた。

まだ齢も若い、煩悩去来、この現世をいかで去られようぞ、生者必滅 会者定離といえど、何で死を選ぶことがあろうど、合戦の場なれば武人の意地もあろう。 敵の追ってもない際に、また栄枯盛衰は世の習い、武門を捨てて、出家となった今の身で何で死を選ぶべき。 先祖へのおわびに命をながらえて、 み仏の光をうけ、子孫へのため犠牲の人となって生きよう。 卑怯ではない、 み仏の心のままに。 もはや山成島で死んだこの身が海屑となって果てたと思えば心晴れやかになごむ。 島の上の岩に腰をかけて陸地を眺めやる維盛であった。

切々と生への執着。 生の法悦をもっている主人の維盛を見れば、重影も石童丸も死の決意も去り、今はときどき松に書きつけられた法名をおがむのみである。 日はさんさんと照り、春の灘風に沖に漕ぎゆく小舟を見た。 島の春潮に藻はゆれて、名もしれない魚が岩礁の間に入ってくる。 風薫る五月の日は照って、もう初夏である。 大洋に小舟があちこち浮んで漁ををしている。 



              
青葉の笛の章     維盛の隠凄             

ああ、天恵なるかな、近づく漁舟がある。 この土地、牟楼崎(室崎)の猟師であろう。 ややあって櫓をあやつり、山成島へ近づいてきた二人がある。 二人は維盛たちに、どうしてこんな島へ来たのかと訝しげに漂着のわけを聞きだした。 不思議そうにじろじろと見て、修行僧の姿であるから、猟師でないことは分かったからである。 「わたくしどもは都よりはるばる熊野三山詣でにきて海にとり憑かれ、小舟に乗って風の具合でこの島へ来たりし者でござる。 あまりによい熊野の海に魅せられたが、帰り舟が流れてしまい困っている次第」 と、やっと言いわけしたところ、「それは気の毒、申すも異なこと、一緒に向こうの泰地へ行こう」 という。

この浦は那智荘水の浦といい、健保元年、維盛上陸三十年後の鎌倉時代に和田義盛の一族、朝比奈三郎義秀(和田義盛と木曽義仲の妻、巴御前との間にできた一子)が鎌倉を出て暴風雨に遭い、泰地に漂着、以来捕鯨の漁業地として発達して太地村となった。 元禄のころ井原西鶴の「諸国噺」にも書かれている。 訛りは今でも 「あのにィ」(あのね〜の変化)である。 

猟師に心やさしく親切にいわれるまま、一緒に舟に乗せられた。 小さな舟ゆえに波しぶきが舟に入る。 これこそは補陀落山大慈大悲の観世音の導き給うものであると、西方に向かって合掌した。 鷺の巣崎沖を漕ぎ出ると、燈明崎の新緑は実に美しく紺青の波に映えていた。 そのとき 「ポシャッ」 と異様な音がした。 みなの衆は驚いた。 波に隠れた岩礁に当たった途端、舟が傾いて持参の一振りの太刀を一人が落とした。 現代も太地海岸に 「沖の太刀落とし島」 と名づけて干潮の時、岩頭を現わす島があるので、土地の人は今もなおかく言い伝えている。 ・・・・・略

数人の土地の婦人が寄ってきた。訛りの強い言葉で話している。 三人は水の浦の伝兵衛という者に親切なもてなしを受けた。 「お若い衆、何か理由があるか知らんが、ちとご早計でございましたな」 といわれて肝がどきっとした。 口重たげに重影が何か言いわけをしたが 、伝兵衛は何げなく「お若い衆は還俗の身でありながら、遠流と同じことになるところであった。 ご存じないだろうが、この熊野灘は荒海ですから、軽々しいことはなさらぬ事じゃ」と、いろいろやさしい言葉や情けをかけられた三人は、数日の逗留の中に初夏の春蝉や老鶯の声を聞いて、波の穏やかな湾には多くの魚貝が獲れるので心のこもった歓待を受けた。 

女人が多いので、「なぜ女が多いのか」 の問いに、女人は 「ただ今瀬戸内で源平合戦が始まり、田辺の別当湛増や新宮の別当行範や行快、富田法眼範智、とくにこの泰地の鳥居行忠、水の浦嘉左衛門などが湛増の命令で源氏に味方した。 この辺の室崎衆も軍船をととのえ(寿永四年二月)八島へ攻め上がったところで、この頃男衆は空っぽになっている」 と、出船のことなどいろいろ話したので、これを聞いた三人は心中驚いて、田辺湛増が、祖父清盛と深い関係のはずなのに 「謀反なのか」 と思ったが、あまりの長逗留で化けの皮がはげる 身分の知れることをおそれて早々にこの敵地を逃れることにきめた。 

「水の浦伝兵衛に折角救助してもらい、おもてなしを受けて、もったいないことだが、僧の身とて早く高野へ帰らねばならぬ身で、長々有難うござった」 と、ていねいにお礼を述べて、翌日、早々に奥地へ出発することになった。 村人に合掌して涙ながらに別れを惜しんだ。 

四月といえばはや山桜は散って若い葉桜や樟若葉が山道に萌えていた。 ふと小高い峠より眺めると、大洋は青く光り、鯨の潮噴く群れを珍しげに小手をかざす。 一行は、深山に入り逃れるよりほか術なきものと話しながら、 当てもなく山の手に向かう。 道すがら川の流れに沿うて山峡をゆく。 大田荘に市屋(一家、一夜)村がある。菜の花の咲き残る里の豪族上勘六宅にひそかに一時かくまわれる身となった。 前は市屋村まで入り江をなしていた。 二、三の漁舟も白浜に舫い、藻塩の煙も立ちのぼって小鳥の鳴く風情に、やや安堵の胸をなでて旅寝の疲れを癒した。

やがて形見の品、鏃(やじり)五本をおいて立ち去ることになる。さらに川に沿うて丸山の渡しをわたり、尾捨山の太泰禅寺にある薬師如来のお堂(説明略)にお詣りし、行く末の安穏を祈願した。 維盛らは小休止。 そのときの記念樹とも伝えられる大門前の椎の大樹がある。 (樹齢四百年以上といわれ、天然記念物に指定されている)  実際は八百年たっているのであろう。 大遍路に沿う太泰寺は熊野の古刹で、本尊は釈迦如来を祀る(八百年代、平安初期、伝教大師創建さる)。

さらに太田荘を奥へ筑紫村より小松の瀬(後年名づく)を渡って中ノ川村に至り、田夫豪族の家庄右衛門宅を訪ねる。 この辺の長者(小松重久、苗字許さる、後述)である。 庄右衛門の離れ座敷に招ぜられて、いとも親切な十日ばかりのもてなしを受けた。 よい月夜の晩である。維盛は月に誘われて外に出る・・・・・略   薩摩守忠度が九州筑紫の月を見て作った、 月を見し去年の今宵の友のみや都に我を思ひいづらん  の歌を思い出して、維盛も歌一首を重久にのこし、筑紫の月を偲ぶ。 現在も筑紫の村がある。・・・・・略

今筑紫の里は十数軒、中ノ川の向こう側に見える。 三人は寝についたが、心身ともに疲れて明けくればもう庄右衛門は田畑一巡して田の畦の、とうが立った嫁菜、ワラビ、ツクシ、を摘んできた。 鶯もこの谷に大きく鳴き、雲雀も晩春の空にさえずって、のどかな昼頃である。 熊野は初夏の訪れが早い。 樫や椎や樟は繁茂していた。 蛙も鳴き始めていた。 その晩はワラビ飯を炊いてくれた、山菜の勇である。 維盛はこの辺が気に入って、ここを中心に重影にその周辺を巡察せしめて適当な住家を探した。

ここから東北方に大野というところがあって、あの妙法山の山腹に色川姓の豪族が住んでいることを聞いて来た。 色川の主人は立派な人柄ということであると報告された。 庄右衛門(小松重久)も重影の炯眼に驚いて大いに賛成した。 「もう、あなたは足早に色川殿のおん館を見て参られたか、あの庄屋どのは珍しい立派なお方じゃ、評判のよい人じゃ」 ともてはやした。 

維盛も重影も内心、熊野平家と熊野源氏のあることを勘定に入れていた。 本来は宗家新宮別当は源氏方で、また、熊野三山の総別当であるはずだ、泰地で聞いて驚いている話だが、田辺湛増は平家方であるはずなのに、源氏に味方したとの話はまことか嘘か、くわしいことは知るよしもないが、もし我らがばれて密訴でもされてはたまらない、仔細にしらべることが肝心というもの・・・・・。 

重影は庄右衛門の正直一途を信じて、「実は主人は平家の三位中将維盛のなれの果てじゃ、お汝(こと)を信じて身分をうち明かす、後生を思うて何とかとりり計ってくれまいか」 と頼んだところ、庄右衛門は下座をきり、頭を下げ、涙をこぼして 「よくぞ、おうちあけ下さった、最初からご出家のご様子なれど、どこか臈たけきお姿に都の尊き僧とお見受けいたしました。 このようなことは何かのご縁、どうかお召使い下されますように」 とひれ伏した。 

維盛主従ももはや疑うべくもなく、維盛は一腰の太刀を出して、「これでわしも安心した。この太刀は宗近のもの、わしと思うてくれ、お汝の心はここ数日ご厄介になっている間に親身に思うて来た」 維盛もやや涙ぐんで「人間というものは窮して始めて人の心が身に沁みる」。  やがて北を向いて平家のご先祖へ、また東方の熊野三山に向かって合掌した。 「さて庄右衛門どの、本日、この三位中将平維盛から、お汝に苗字 『平』姓をさずける、これからは小松左衛門と名乗れよ」  あまり唐突のお言葉に、庄右衛門はしばし声も出なかった。 

その後は小松左衛門重久と名乗り、今日までも 「平」 姓の子孫が連綿とつづいている。 庄右衛門の上役、色川どののおん館に先ず参り、命を賭けて頼んだ甲斐あって色川豪族の世話を受けることになる。 十数日の滞在が維盛には非常に嬉しかったのであろう。 苗字帯刀を許され、名刀宗近を形見として与えられたが、元文二年、太刀は太泰寺に奉納し寺宝とされた。  太刀奉納記・・・・・略

維盛主従はついに色川郷にて大野村豪族、色川左衛門佐盛重氏(後年維盛の裔、色川左兵衛平盛氏、盛忠、南朝の功臣となる)によって匿われることになる。 色川氏は委細承知いたしましたと同情と忠誠を誓い、山奥の鹿谷を潜居の地と定め、庵谷といって人到り難く、ここに隠れ家を構えた。 世にいう 「大野藤綱の要害」 に潜居することになる。

ここは西峰山を背に白滝が落ち、屏風倉という絶壁で山蔓によらねば住居にゆけないところで、白滝という滝の清流がある。 ただ色川氏のみ知る間道があって食料を運んでいた。 ときに従者は西峰山から小雲取その他の山を巡り、ときには狩猟などもできた。 人の口に戸は立てられぬ。 壇ノ浦合戦の凱旋で田辺、日置党はじめ、古座、太地、鵜殿、九鬼浦水軍ともども喜んだのも束の間、戦いがなくなって平和な世になると、生活のため猟師となって暖流のもてくる鰯、鯖、鰹、鮪の魚や鯨捕りに精を出さねばならなくなった。 

そんな頃色川にある藤綱の要害付近に真夏も過ぎようとしていた。 日脚が短くなり夕頃はやや涼しくなった。 匿われた主従はある日何か外に異様な音を感じたかのように、囲いの中に立ってしばし佇んでいた。 建久元年正月六日、天狗が新宮神倉山に現れた年である。 (「熊野年代記」) 「すわ何者ぞ」 三人ともに音のほうを瞠(みは)って身構えた。 

那智の奥でも天狗は荒れたのである。 「天狗かっ」白狐のような影がたしか藤綱の森の中にちらっと見えた。 数刻経って、ピューッ と一矢が維盛の肩をかすめた。 重影は跳ねるように、彼の腰の太刀は唸りを立てて白狐に飛んだ・・・・・。 瞬間に手応えあったように何かどっと落ちる音がした。 黙々の中に数分が過ぎた。 死を賭けた男 天狗はころんだ。 近づくと突然太刀で跳りかかろうとしたが思うままにならない。 この維盛と知ってか知らずか、後は寂としてただ風の音と滝の音。 月は宵の間だけで暗闇となった。 谷も闇の底に沈んでいた。

山伏の中にも物騒なのがいた。 主従は稗酒の杯をかたむけたが、翌朝一人の山伏が死んでいた。 この数日、ひそかに藤綱の要害のまわりを動いていたものであった。 源氏のまわし者か豹変の山伏姿。 八島合戦以後、敵源氏の維盛を追う男か、平家の落人で源氏に心寄せる者の仕業なのか、好事魔多しとか、山伏の維盛暗殺計画は寸前に破綻したものであろう。

「熊野年代記」 によると、建久元年(1190)、白河院熊野詣で三十四回目で、「色川宗家至鎌倉」 と記録が残っている。 頼朝征夷大将軍となる二年前の年で、弟義経の追討令を出している。 義経は追われて奥州藤原氏を頼り、逃亡していることを知った頼朝は、なおも平家残党征伐の手をゆるめていなかった。 色川宗家を呼んで、維盛は果たして入水したものか、また維盛を匿った科を問責する意であったのか、翌二年、色川衆鎌倉に入ると記し、なを宗家以外の者も取調べられた。

武人としては猜疑心の強い頼朝は、維盛の死骸を確認しない限り安堵せず、内密に腕利きの武人を刺客として熊野へ差向けたが、ついに行方不明のままとなった。 以上のように熊野の山伏たちの噂もさまざまに頼朝の耳に入り、ついに熊野の色川宗家を鎌倉へ呼びつけて直接問注した。 色川氏は、そのときは維盛はすでに色川から逃避したあとになっていたので、不在のいま、知らぬ存ぜぬ嘘偽りなしと突っぱねた。 

維盛は藤綱のもとに潜居したままいつしか寿永年間も過ぎた。 その間ひそかに下流の口色川村の色川氏ゆかりの大野の水口家に通うことがしばしばであった。 山の間道も通えば道もよく分かる。 某日、維盛は涙ながらに色川宗家の心からの親切を謝したが、その際、色川氏より、実は大野村の庄屋、水口家の娘をお召仕いいたしているが、身ごもれるご様子ゆえ、いかが取りはからいましょうと相談したところ、維盛は幸いげに、ではよろしく頼むとのこと。 この小松家平維盛も、この藤綱の滝の流れの清流に生きたので、 これからその子に清水姓を名乗らせることとすると申しつけた。 

色川宗家もうなづき、少し何か考えこむかのように、平家ご嫡流のご血統ゆえ、いささか考慮いたしましたる次第で、恐縮のことながら世は乱れている時世ゆえ、口色川の上村(上裏)家には子なきを幸い、嗣子としてお迎えしたく存じます、と申し上げた。 維盛も満足げにうなずきながら賛同した。 当時、鎌倉では、奥州の義経は衣川で藤原泰衡により殺された。 色川宗家から「世も静まり、藤綱は窮屈ゆえ、大野に棲家を変えてお暮らしなされよ」と懇願され、維盛は大野で住むこととし、この地に掻上の城を築き、城が森と呼んだ。 

第一子を盛広(清水権太郎)と命名、ついで第二子盛安(清水小次郎)は大野、水口家を嗣ぐことになり、水口小次郎盛安と名乗る。 維盛は子を愛し、源氏の捜索ももはやこの色川郷には及ぶまいものと考えたが、熊野海岸一帯は熊野別当代々の支配下にあり、まだ気は許せない。 妻は続いてできた子を抱えながら疲れ気味であったが、維盛はいつもやさしかた。 妻は、二人の子に乳房をすがられたが、思うように乳が出なかった。 しかし幸いに子供たちの肥立ちもよく育っていった。 

これが豪族色川宗家を嗣ぐ。 維盛は村人たちにも時に会うことがあった。 どこやら気品のあるおん方、僧籍にあった方と聞いているが、髪は無造作に束ねてうしろへ垂らしていた。 小袖に素絹の袴、小太刀を佩(は)いていた。 まったくの山中の閑居、従うものとては毎日重影ら二人のみ。 そしてときどき中ノ川の庄右衛門平小松重久が物を運んでくる。 家では何の行儀もいらない姿で、窮屈から逃れた生活の楽しさを味わって、ときには色川氏差し入れの書物に倦み疲れることもあった。 机を立って裏に出る。 山へのぼる。 孤独の寂寥に襲われることがある。 高野への山脈は陽に映えて遠くかすみ、また遠くの太平洋の渺々(びょうびょう)たる海原が見える。 山林の小径、杣道、には時には山つつじが、山萩が咲いていた。

もう藤綱潜居より三、四年いつの間にか過ぎてしまった。 口色川村に移って清水姓を名乗り、小さな城の森に天守二、三 、長屋、追手門を造った。 維盛の長子盛広の居城となる。 次男盛安も武芸に励み、色川清水党一族に従う。 現在でも色川家は平維盛より出たと伝えられ、系譜にも平氏あるいは色川姓と書いている。 ・・・・・略 

口色川村は中央に色川が流れて杉、桧のうっ蒼たる山林に囲まれ、椎茸、しめじ、山芋を産し、大田荘は最も大きな穀倉地を持っていたから、米麦は木材との物々交換も出来たわけである。 色川館はこの大田荘を下に眺め、石を積み、棚田を作り、天に耕して、稗、粟らしく青々と、ところどころ菜の花畑を点綴してよい眺めであった。 遠く高野へ続く連山も夕霧、幾重にも寂として美しく、広庭の一隅に山吹も今を盛りと咲きほこり、山ツツジもところよろしく咲いていた。 

熊野の山間僻地の土豪は勢力が強かった。 山林労働の余業として農地を開墾し、時に色川郷は段々畑に米、麦を作った。 茶、稗(ひえ)、粟、黍(きび)など、自生のものワラビ、ゼンマイ、ジネンジョ、栗、椎の実、獣は猪、鹿、兎、猿、などときに小松主従は弓を作って射て獲った。 雑木は伐採して薪にした。 世はもう源氏の天下、頼朝は大江広元を政務の公文所の長に、三善康信を問注所の長にして政務をとっていた。 

維盛主従は壇ノ浦合戦の状態を知るよしもなく、初夏は清涼の山上から、熊野灘に遠く見える漁火、昼はときに鯨が塩吹くさまを見、五月雨に山ほととぎすの鳴くをきいては都を思い、天高く秋清らかな山里は人気なき日々、陽光のもと山脈はくまなく美しく映えて里の灯はちらほら、冬は山路も凍って寿永三年も終わりを告げ、また新しく木の芽時となった。

主従は互いに心を励まし合い、たびたび庄屋の主人、内室の訪れに夜更けまで談笑することがあった。 風の便りに、平家は壇ノ浦での最後の一戦も利あらず、散り散りに滅亡の有様というそのあらましを聞いた。 山を散策しては山の幸を採り、那智の滝の上流の大雲取、小雲取までも歩いて獲物をとることもあった。主従三人はつねに山を上り下りしたり、山の開墾などによって力を養って心身を鍛えていた。 

ある日、昼に近い頃、四、五人の頑丈な色黒き者たちが、泰地の鳥居氏の状文を持って色川氏を訪問した。 文面によれば、平家を壇ノ浦ににて打ち滅ぼし、熊野水軍の軍功めざましく褒状を賜い、熊野の所領を支配することになった。 さては軍船を漁船とするには修繕に大量の材木が要るので桧、杉を譲り受けたいと申してきた。 それは承知することに決まり、木材を大田川より流し、下里湾から泰地へ送ることに決定したのである。

そのとき壇ノ浦合戦に参戦した者が八島、壇ノ浦の戦のことをつぶさに物語ってくれた。 中でも源氏の御大将源義経の力戦について手まね、足まねで語る態は、流石芝居を見るようであった。 使いには昼のご膳を馳走して稗酒を振舞った。 平家の侍たちもちりじりになったが、 安徳天皇入水し、宗盛は生け捕りにされて鎌倉へ。 有盛、行盛、資盛、清宗らともに入水、または討ち死にし、最後に知盛は錨を高く捧げて 「源氏の物ども、よく見よ」 と西海の海中に沈んだ。 平家の大将新中納言知盛卿のみごとな死に際であった。 

やっぱり平家にも立派な武人がいたと語るのであった。 さらに聞くところによると、右大臣重盛卿の御嫡男、維盛卿は八島より逃げて行方不明とか、源氏も八方手をつくして探しているとさんざん喋って帰った。 鎌倉殿からは、平家一人残らず撃ち取れとのお沙汰であった。 今はくまなく平家の落人を探して、問注所を通じていろいろ調べたという。 

壇ノ浦合戦後は平家一族郎党は中国、四国、九州にと、ちりじりに落ちているので、源氏の追討はいうまでもない。 しかし、維盛主従がまさか熊野の秘境に逃れているとは、夢にだに思わなかったのである。 まして熊野湛増別当の支配下にあるから、安心していたのである。 一方、源義経は京洛へ凱旋して後、白河院の褒賞を受け、朝廷の公家たちも大いにもてはやし、殿上をを許さるなど、彼の手柄をもっぱら褒め称えた。 そのことが、梶原景時からも鎌倉へ注進された。 ところで、源氏の総大将のような義経の京洛におけるお振舞いに、兄頼朝が立腹した。 この噂も田辺の湛増が新宮の別当に洩らしたとか、いやはや世の中はなかなか物騒なことで、源氏の行く末もどんなことになるだろうか。 

熊野海岸一帯は源氏の水軍である。 平家一門とわかれば鎌倉へ伝えること間違いなく、山奥に潜居しておればこそ安住である。 発覚されぬが肝心、維盛殿主従は顔貌すでに昔と異なり、黒々と髭面をして一見土着の百姓と見分けがたい。 口色川は奥色川のことで、那智山より見て色川庄の入り口になる。 ・・・・・略 
維盛は口色川に移り住んで四、五年後に行方不明となっている。・・・・・略


            
 古座川の奇縁

古座川流域は一つ岩などで美観の渓谷である。 色川村と古座川支流の小川とは道のりは近いので、鮎釣りにはよい峡谷であった。 夏のある夜、道は明るい。 維盛は中ノ川の庄右衛門の案内で、重影を共にして、鮎釣りにと隣村の古座川の奥まで足を伸ばした。 維盛は日々単純なくらしに飽いているので、幽邃な色川の谷より離れて面白い所をと夜道を退屈しのぎに大野村をでたのである。

庄右衛門重久は釣りの用意万端を整えていた。 「ではお供を」 と主従四人づれ。 夏の夜露に濡れながら、八郎の山を越えていた。 山道は蒸し暑かった。 下方にちらと灯がついていた。 月は点心から西に傾いて、茂っている雑木もはっきりと見えていた。 石ころの山坂、夜空の跫(あし)音、日中のようなこの大遍路に往来の人もいない。 熊野男に変装して、山越えで古座川上流へさしかかる。 

空も白みかけてきた。 夏の夜明けは早い。 霧の流れは脚もとをめぐっていて、あたり丈なす夏草ははっきりしてきた。 汗をぬぐいながら一休みする。 山坂で腰かけて維盛は考えた。 古座浦に近いというが、高川原家は湛増の配下でもあり、源氏方ではなかろうか。 しかし、ここ二年あまりというものは、色川どのも申していた。 平家の有縁とあれば、幼い隠し子まで探して仮借のない処分をするそうな。 庄右衛門は古座川奥でも維盛は色川旦那の客といわれていた。 池ノ川の高川原家は色川氏とは別懇の間柄で、そのような心配はいらぬと、かねがね維盛に話していたことを思い出し、一安心する。

池ノ川は古座川本流と小川との分岐点のところ、やがて高川原家は郷士としての家のたたずまいもよろしく、三人は家に招じられる。 もう打ち合わせてあったので歓待、朝餉の用意もされていた。 近所の男も女も手伝い、高川原家の兄と妹二十の娘も混じって・・・娘御はどこか京の女に似ている。 やがて小舟にのる。 また瀬に立って釣る。 維盛はとくに舟の中に莚(むしろ)をしつらえた苫舟に招じられ、旅情を充分に満足させた。 その夜は、庄右衛門の計らいで催された高川原家のささやかな宴も、娘の寝所のお伽も彼を安らがせた。

翌日は色川氏宅への土産物をことずけていた。 もう古座浦は大漁つづき、湛増は壇ノ浦合戦後、田辺へ帰ってからだを悪くしてずっと養生していた。 怪態(けたい)な取りざたもしておるが、はや熊野は源氏の世となり、浦々も落ちついた。 後年、平氏ゆかりの子孫は蹶起(けいき)して南朝勤皇党に属し、また平家後裔の織田信長を援けたが、始終王室の味方になって戦功を立てた。 (また、一説に維盛の弟忠房の子は高川原を名乗る、平頼盛の子孫が塩崎氏と)   ・・・・・略


           
 悲恋の章             竜神の里の石楠花

狭霧も晴れかかり、ようやく山の容が現れてきたが、深い霧はまだあちこちの山の渓谷に残って寂しさを一層つのらせる。 ときは初夏といえども山つつじが山の尾に咲いていた。 主従三人が山道に入ると、うっ蒼とした杉林の中を猪の道なのか、細い狩人の道らしき小道をたどりつつ急いだ。 昼なお薄暗い森の中である。 こんなときには山伏姿がよかったと思えるが、それは詮なきこと。 熊野の旅の扮装だが、茨や小枝に山袴のひざが引っかかって歩きにくい。 貰ってきた鉈(なた)がどんなにか役に立ったであろう。 

ようやくにして道らしい山道に入った。 日の当たりをたよりに東西南北を判断して、とにかく高野へもどる道の方向を定めた。 庄屋で貰った少々の米、麦、稗を大切に、道に生えた虎杖(いたどり)が何より美味なので、それを食べたりした。 遠くに山猿の声を聞いたり、鳥の声を楽しみながら、行方も知らぬ紀州の奥の旅路であった。 また、小さな滝に出くわしたり、岩から湧き出る泉にのどを潤したりしながら、主従三人は少し慣れた山旅を続けた。

維盛は一番つらそうに、いまどの辺を歩いているのだろうとつぶやくように言う。 中遍路の熊野街道を横切るところで、都への町石に出くわした。 「是より右は竜神、左は田辺」という。 野宿もし、三日かかったのだから少し安堵の胸をなで下ろしたが、街道ではゆっくり歩けない。 誰に見つかるか分からぬ逃亡である。 ときに腰を下ろして休み休み、三人ともあまり声も出ないが、励まし合った。

霧がかかってきた。 一軒の杣人の家で草藁にからだを横たえた。 小さな娘が親切に稗がゆと虎杖(いたどり)の煮つけを持ってきてくれ、それで腹を癒した。 星月夜を、しばし茅葺の屋根の下でいつしか三人ともにそのまま眠ってしまった。 外では吹き抜ける風が梢を鳴らしていた。 朝になって、 突然 「お前たちは何者ぞ、わしは田辺湛増の身内の者だ」 烏帽子に山袴、両脛を紐括りに結んで草鞋ばき、狩弓に皮鞘の太刀を佩いていた。 熊野の者でござる、高野まいりの途中」と答えたが、幸いあやしまれずにすんだ。 彼等は去って行った。 

田辺の湛増が源氏の勝軍の功によって別当となり、平家追補令の役目を帯び、山路、海路を掌握して中遍路、大遍路を僧兵に巡回させていた。 湛増は今や熊野の平家探題の如き存在であった。 ともかく無事に竜神にたどりついた。 竜神温泉は山峡の湯、日高川の上流にあり、弘法大師が難陀竜王の夢のお告げで開いたといういわれで、竜神の名がついたという。 

深山の竜神の霧は晴れて、美しい石楠花の花が咲いていた。 維盛は殊の外しげしげ眺め、都では見られない華やかな花にしばし心を和ませた。 有為転変の世、もはや平家は敗れた。 湛増が源氏へ寝返りして八島へ出陣したことは以外千万であり、「湛増の探索行為は油断大敵」 と考えた。 代々の別当は熊野御幸の祭典儀礼を掌り、とくに清盛には恩義を受けていた。 

清盛没後は、別当の中でも新宮別当は源家と深い縁があった。 源平合戦のとき湛増の命令一下、熊野一円は狼煙の合図が浦々へと伝わった。 熊野水軍の荒くれ男が八挺櫓(はっちょうろ)を漕ぐ強力、鯨に銛を打つ早業、刃を突き刺す妙技など、腕利きの競い合いは、西国でも恐れられていた猛者ぞろいであった。


               
 竜神の女見染めらる

三人は旅に疲れながら、熊野の色川からうまく逃げられた。 「もうわれわれの姿も変わったので分別出来なかった」 と安堵の胸をなで下ろした。 やがて身を整えて歩き出した。 蓑笠も濡れ、なお露が脚にかかってくる。 三度めの草鞋もそろそろ切れてきた頃である。 先方にうすく立ちのぼる煙はたしか湯煙だ。 先刻街道を狩弓を持った猟師が二人、皮鞘の小太刀を横たえて歩いているのが見えた。 

もう竜神の里である。 小屋が七、八件見えてきた。 空高く護摩壇山が見えてうっ蒼と森林の山が聳えている。 夕日はもうやまの端にせまり、山奥の昏れの早さ、食べ物の支度か川のほとりに女性が一人うずくまっている。「ちとものを尋ねたいが」と後ろより声をかけると女はふりむいて、少し驚き顔。 十七、八歳の眉目うるわしく、山の女とも思われない、少し媚を浮かべて洗い物の手を止めて立ちあがった。 川にも湯煙が立っていた。 「一夜の宿は湯元のお許しがあれば貸して下さると存じます」と答えた。

主従三人はこの女性の言葉に安心した。 お互いにうなづきながら教えてもらった湯元の家を訪れた。 家は小さいが木造りのよい家である。 主人の許しを得てしばらく泊めてもらうことにした。 男女混浴の温泉がある。 主従三人空小屋に案内され、しっぽり濡れた扮装をとき、かまどの近くにある薪に火を入れ、着衣を干し、蓑笠と杖も片付けて入浴した。 湯に浸かりながら、「ああ、よい湯だな」 と、極楽浄土にある心地にて西方に向かって手を合わせた。 

おもえば平治二年、熊野三山が国費で造営されたとき、勅使として父重盛が参詣した。 熊野をさして進まれるうちに、岩田川にて身そそぎをなし、悪行、煩悩、前世からの罪ほろぼしをして熊野東宮証誠殿(今の本宮)の神前にて 「私の命を召されて後生をお助けください」 とお祈りしたという、父重盛の話を思い出した。 父も病をおして祖父、大相国清盛へ成親卿の謀反のことで諫言もした。 後、父重盛はついに治承二年七月二十九日 暑い夏の夜の明け方、清盛に先立って四十二歳で亡くなった。今から思えば胃潰瘍か胃癌か、急に食欲が衰え、痩せて遂に吐血して亡くなった。 

秋風が立つ頃には、平家一門にも何かしら哀愁が現れはじめた。 とくに重盛亡きあとは、全盛を極めた清盛もその孫の維盛、その他一門のために、世間に強がりを見せたが、しかし、六十二歳の入道清盛とて、もはや肉体的にも精神的にもとみに元気が衰えていた。 市井ではでは物価が上がり、物騒な世相となり不良の輩も多くなった。 人目に立つ所には高札が立てられていたが、あまり効果もなく、治承三年の年は、全国的に米不足に加えて物資が乏しくなり、また悪病も流行した事から、平家は政治の不安、怨嗟の的となってきた。 時の平大納言時忠は一公卿より身を起こし、清盛の恩恵をほしいままにしたことが災いとなり、京洛においていっそう平家の不評を買うことになる。 ”驕る平家は久しからず”ということは、この時分のことをさしていうのだが、平家の落日を占った感じが深い。 

治承三年十一月十四日、清盛は遂に数千の兵をひきいて福原から京都に向かい、関白基房を大宰府へ、後白河法皇の院政をとり止めて鳥羽に幽閉したのである。 治承四年、安徳天皇(清盛の娘の子)即位して福原に都を移した。 現代の神戸で、すでにこの頃より外国との貿易を志していた。 八月に入り、伊豆にいる頼朝が兵を挙げ、維盛はこれに富士川で敗戦した。 養和元年二月、清盛公が亡くなった。 


                  
護摩壇山の占いとお万の悲恋

竜神の湯。 一人のお年寄りが湯治にきた。 風呂の中でお互いに話を交わした。 「旅のお方ですか、私は日高川奥のもので、長らく骨の節々(関節リウマチ)が痛み、毎年この竜神の湯治に着ております」と、下肢を湯に入れながら痛そうに言う。 その年寄りが、「最近田辺の湛増は源氏に味方して山伏などを尋問している。 あのわがままぶりには愛想がつきるわい」 とぐちをいう。 ついでに下関の彦島を最後の拠点として壇ノ浦の大合戦(海戦)勝敗が決したが、平家は勝利あらず、安徳帝を二位尼が抱き奉って入水、平家の一族教経、知盛らも入水、戦死した。 

家来どももちりじりになったとくわしくはないが、一応のくだりを話してくれた。 そこで維盛も重影も石童丸らも、もはやわが世も去り、源家の時代であることを充分承知したのである。 入浴して外に出れば、森閑とした夜は山ほととぎすの声も哀れに聞こえてきた。 諸行無常と思うよりも、三人ともに南無阿弥陀仏、平家一門の極楽浄土を祈りつつ寝についた。 幻無夢の世界に漂う主従であった。

明けくれば六月半ばの青葉の山脈にうっとりと、しかも落花の木々のすがすがしく、川は瀬音を立てて流れてゆく。 聞けばこれは日高川の上流であるという。 重畳たる山々は何事もなく大自然の中に包まれて、主従三人の行方を知らぬ如く、去りし昨日はかえすによしなく、明日はいまだわがものならず、ゆえに今日をひたすらに生きるのみ。 その心境そのもの  かえって何事も忘れ去ろうとした。 ”虚心是我師”のわれに帰った。 

とくに維盛らは北の方も、六代の若君もすでに亡く、今は西方浄土の彼方のものと思っていた。 鉾尖岳からのぼった太陽は、晴れわたった竜神の里を暖かく包んだ。 昨夜の女性は弁天のような美しいむすめであった。 今の維盛は三千世界を尋ねてもないこんなきれいな娘御、田舎娘の初々しい姿にほれぼれとしていた。 

追われる身、苦難の旅に心身ともに疲れていた維盛には、いっそうこの娘がなまめかしく見えた。 会釈をした彼女の手は渓流でとれた山の魚を十数尾提げていた。 「へたながらこの奥の浅瀬で採りました。 少しですが召し上がれ」 と愛想よく、数尾を笹の枝に吊さげてくれた。 小松も有り難くいただいた。 火にあぶって食べることも教えてくれた。 

維盛は昔、六波羅の御膳に鮎の焙りのついていたことを思い出した。 お万という田舎の娘としては言葉づかいも美しく、どこか京の北の方に似ていた。 家柄の娘御であろう。 彼女のほうでも、彼らが髪もぼうぼうとして熊野の者と聞いているが、どこか上品な方らしく察した。 どんな方であろう。 維盛主従は適当な住家を探してまわった。 

ひる頃、重影と石童丸がひょっこり帰ってきた。 維盛の知らぬ間に明け方、狩弓をもって狩に出ていたという、獲物の兎と野鳥とを示した。 維盛は念を入れて石堂丸に胡散者(うさんもの)に会わなかったかと尋ねたが、心配はないとの返事に、維盛は安心の態であった。 椋鳥(むくどり)、目白の鳴き声が近くで聞こえる。 山椿はまだ咲いていた。 

昼餉はアメノウオ、夕餉は山の鳥の肉ということで、ゆっくりとどこか安住の地を求めることについて話をしたり、また猟の話に変わったり、鹿やいのしし、鳥の群れを追ったじまん話に暮れた。 遠く鹿の鳴く声、またほととぎすの二、三声、五月闇もしんしんと更けてゆく。 

維盛はもとより女は好きであった。 とくにきりょう好みであった。 夜中に下弦の月が山の端に出ていたので少し道は明るい。 彼は何となく彼女の心を誘惑したかった。 十日ばかりの滞在で維盛はもう、彼の女姓として心を許す仲になっていった。 重影も石童丸も知らぬ存ぜぬで狩に出かけた。 維盛は寂しさのあまり日々につのるお万への炎のような恋心、むしろ京の北の方よりも誰よりも愛するものとなった。 高野の滝口入道と横笛との恋愛より激しくなったように、自分の出家の身や姿もはや忘れてしまって、竜神の日々が楽しかった。

だがまた悩みの日もつづいた。 お万という女性は母の病気が癒るにしたがって、ひとまず村へ帰るという話になっていた。 小松主従は、娘の母の湯治中をさりげなく見舞うなどして、母なる人と相知る仲となり、ある日、重影がお万の母者人に会って 「娘御を主人の侍女にでひ懇願したい、よろしく頼む」 と申し入れた。 母も、維盛らが行者姿の人々ではあるが、どこか臈たけたところもあり、品もそなわる方々で、他人事でなく、定めし男所帯は衣食にお困りのことであろうと察し、「もはや病気も全快いたした。 家に二人の妹たちもいることゆえ、しばらくお手伝いさせましよう」 と快く引き受けてくれた。 

その後、小森川沿いに居宅を借りて、しばらくの約束で人目をしのぶ仮住まい。 竜神奥の一日は太陽が山から出て山へ入る。 春夏秋冬、護摩壇山の山の色は変わり、雲に、霧に、雨に、木々は緑と青、紅、黄に変わり、視界は霧海の天が澄み、水清く真に恵まれていたが、山道は不自由であった。 鳥や鹿の鳴く声に目を覚まし、山女などや山菜料理、ときには山鳥や兎、猪料理、鮎のなれ鮨に舌鼓をうち、毎日たのしく、いつしかこの眉目美しい女も維盛の心を慰めて大人びてきた。 

重影と石童丸は別棟の家に住み、狩によく出かけた。 強弓、腕利きの重影はいつも獲物を提げてくる。 鹿皮などの毛皮は、それで冬の寒風も雪の日も、薪や毛皮に恵まれたことで、寒さに困らないで過ごせた。 山の幸川の幸あり、山の生活がいつの間にか四年間過ぎていた。 お万は情緒ゆたかでほんとの愛をささげ、維盛のやさしさや男の魅力にひかれ、恋情に炎が燃えて、愛はいつしか根をおろし、そして伸びて行った。

互いにひたむきな主と侍女の二人の愛は、蕾から花が咲くまで待っておられなかった。 維盛は盛者から孤独のの境に突き放された自分の心に新しい息吹を感じた。 広大無辺の自分のふところの中で、やさしい愛の瞬間を与え合った。 

色川の暮らしは、お尋ね者として世を忍び、その狼狽と監禁と性の衝動の中に生きて、深山での求愛に活路を見出した。 色川の忠実な素朴な側妻であった。 大事な子供までなした仲を別れてこの竜神にたどりつき、ついにお万と日々恋の囁きを交すことになる。 そうした恋とは関係なく、この竜神の奥にも、それとなく山なみを吹き越えて、風のままに平家敗滅のうわさが伝わってくる。

重影一人は時々大和へ  下市や十津川の神納川の探索やら使いに通うことが時折あった。 重影の情報によって世の中が源氏の支配下にあることを知った。 お万は悲しいかな、子が宿らなかった。 お万はその後、家来同士の会話やら、話の中で、男が三位中将維盛であることを知った。 

重影と石童丸は旅に出ていろいろなものを買ってきた。 不自由はなくなった。 下市からおいしい 「なれ鮨」 も届いた。 狩衣その他の身の調度品も手に入れて来た。 武人としての刀剣類も手渡された。 けれども表面は、いつもただの人として装っていた。 この里での年も明けて五年目の正月頃、二人の訪問客をつれて重影が旅より帰ってきた。 

正月に持参の祝い酒でもてなされる。 旅人がきわめて丁重な風で密談を交わしていた。 ふくよかな、なまめかしい女  お万はどこまでも侍女として召されたので、誰もお万の方としてはっきりした身分を与えられることなしに日が過ぎた。 彼女は石楠花のごとく生き、また石楠花を好み、よく石楠花を部屋に活けて維盛を慰めた。 お万は喜びの中にも悲しみがあった。 それは、こんなに恋いこがれる方といつか別れなければならないかという大きい不安があったからである。 楽しさと悲しさの日々でありながら、月日が過ぎていった。

重影らの話は深更におよんで維盛はようやく何か納得したような風であった。 何のことやら・・・・・。 会話の内容についてはお万には全然知らされなかった。 時々「御大将」とか、平家とか、湯川とか、話が途切れとぎれに聞こえていた。 訪問客は近井半兵衛岩崎助九朗の両名で、平家に仕えた者どもだが、故あって古里在田郡八幡村へ帰っていた。

竜神の平家ゆかりの者どもと相諮(はか)り、在田郡上*川へ転居していただきたく、また侍女お万とはどうしても嫡男、平維盛の御方としてはふさわしからずとして、お万に申し入れた。 一時あきらめてくれと寄り寄り相談した。 また殿へも何れお万を竜神に止めさせることとしておいた。 お万には、未練がましきことのないようにと固く約束しておいた。 それとは知らず維盛は手筈の通りに、いよいよ竜神小森谷の寓居を離れることになる。

当日はお万に見送りさせることにして、杉谷明神にも参詣をし、家来七人の侍をつれて竜神街道に出る。 侍女として四年も仕えたお万はやさしい維盛さまを何であきらめられようぞ、心中ただお慕い申していたものの、さて別れるとなると身も心も置きどころなく、あまつさえわが夫とした維盛とお別れせよとは、あまりにも情けない、この期におよんで無情というもの、お万は内心この恋心をふみにじられた悲しさのあまり、二、三日前よりまた前夜もまんじりと眠れなかった。

生身を裂かれる思いで狂わんばかり。 お万はやつれて顔も蒼白く、言葉もすくない。 維盛はことさらいたわるように、 「お万、お汝はあまり心配するでない、からだにさわる。 源氏とてやがて衰亡の日がやってくる。 その日がくれば必ずお汝を一生わしの側に・・・・・」 と慰めて抱き寄せた。 お万は維盛の胸によよと泣き崩れる、女郎花(おみなえし)のように。 

庭に蔦紅葉、ときどき鵙(もず)が血を吐くように鳴いている。 晩秋の護摩壇山脈は錦絵のようにきれいであった。 天高く空澄んで、やがて訪れる冬の気配さえ感じられた。 このような悲恋はちょうど同じように寿永四年一月六日、義経西国への逃亡が大物浦から船出して嵐に遭い、十七日、吉野山に潜居五日間で吉野の民衆に追われて最愛の妻、静御前と悲しい別れをして吹雪の中を吉野から消え、弁慶らを従えて逃亡した。 

今のお万も静御前のように・・・・・。 維盛も転々潜居を変えてゆくのだが、今、竜神奥での別れは忘れることのできない、さみしさ、悲しさ、愁いでいっぱいなのである。 維盛の上*川の里への流亡も、重影の知恵が大いに手伝った。 出発の前夜平家の公達として生まれた彼維盛は子供の頃、父重盛に教えられた万葉の歌を思い出していた。 ・・・・・略

さて龍神村の小森谷は原生林の谷間に静かに眠っていた。 ちょうど護摩壇山の六、七合目、滝などがあって修験者の行場としてよい場所で、いろいろ山伏と巫女の行跡がある。 山伏などの間で、行方不明の維盛さまが、竜神近くの小森谷に潜居しているとの噂が立っていた。 近井、岩崎は上*川の郷士であった。 その他武士もいたが、上*川の土地五千町歩を譲る約束で維盛を迎えた。 
近年、近井半兵衛の子孫はわからないが、近井の地名は今でも残っている。 岩崎助九朗の一族は昭和二十年代近くまで上*川に住んでいた。 後世上*川の**家へ、十津川の加納川の小松家より「おしるし」掛軸(日光曼荼羅)を祀ってくれと頼んできている(小松宗直伝述)・・・・・その他十津川からの「寒之川白箸」・・・・・略  
 (*管理人よりお知らせ* 2006年現在、日光曼荼羅は和歌山県立博物館にありますが非公開となっています)

奥杉谷も紅葉して川に黄葉が映えて美しく、山萩も身にしみ、川風に揺れていた。 屋敷のまわりに花芒(すすき)が月を迎えて、緑にはもう月影がさしていた。 夜は冷えてきて、肌寒い。 お万は明日の別れを偲んで維盛に袷を肩にかけ、「かぜなどひかないでおくれ」と心を配った。 維盛はお万に心を紛らわすように、上*川という土地はどんなところかなど訊ねたりした。 お万は行ったことのないところであるが、安住の地であると答えた。 

何日も何日も霧が流れ込んで二人を濡らしていた  この奥杉谷ともお別れかとしみじみとその夜は温かく抱き合って話を交わした。 殿の安全を願って両郷士に向かい、家のあちこちを片づけながら、「近井どの、岩崎どの、殿様をよろしく頼みます」と、顔には心の悲しさを秘めてものを申す。 重影はじめ皆皆哀れを催した。 

ある説に、維盛はこの奥杉谷に潜居中、 文覚上人とともに護摩壇山に登り、山頂で護摩を焚いたが、煙が上がればわれに運あり、上がらぬときは 「平家の不運」 と決めて護摩を焚いていたが、ついに煙が上がらなかったので平家再興をあきらめて、この奥谷にずっと住んでいたという。 維盛の漂白の旅とはいえ、まずまず安穏であったのは、情愛こもる郎党の庇護、とくに重影の英知がすぐれていたからである。 (*管理人よりお知らせ* 竜神スカイラインの県最高峰の護摩壇山にこの説明がきがあります) 

護摩を焚く一心不乱の合掌は、この山頂において真剣に、おごそかに行われた儀式であり、そのいわれで、この山に護摩壇山という名がついたといわれる。 これまでにも京洛、鎌倉などの情報を探る目的で、重影は杉谷より護摩壇山を越えてたびたび吉野へ通っていた。 大和の下市で、お里と知り合い、ついに恋仲となり、婚を結び、お里に 「なれ鮨」 屋をやらせていたのである。

いよいよ住みなれた奥杉谷といわれた小森谷を出立することになった。 維盛はお万の見送りをうけて家来も連れて上*川へと竜神道へ出る。 十月二十一日、水分神社のおわたりもすんでいた。  (注)・・・・略 
お万はもはや心中決することがあるらしく、赤壺(淵)で紅を捨て、白壺で白粉(おしろい)を捨てる。

お万は維盛に従って滝や淵を眺めながら、空の渓谷でしばし休憩をとり、紅葉黄葉を飽かずに眺めながら、これが今生の見おさめかと じっと涙をおさえ、維盛の顔を見ては覚悟を定めていた。 現世は縁なくとも、前世の契りもあり、浄土でお会いいたしますと言葉に出さないが、じっと見つめて 「さようなら、維盛殿」 と心の中で念じつづけていた。 
小森川の上流に 「お万ヶ淵」 がある。 やがて間もなく帰り途、淵に投身自殺があった。 その後誰いうとなく、この淵を ”お万ヶ淵” と今日まで言い伝えている。 

       竜神と維盛伝説秘話       ・・・・・略  
       衛門 、 嘉門の滝        ・・・・・略


        
        維盛上*川へ移る

一行は、高く聳えている高田良山の裾を流れる日高川支流に沿い沿い、城ヶ森を回って山道 (竜神から八幡村へ抜ける竜神道) を、在田郡(有田郡)に入り、有田川支流の湯子川に沿って下り、八幡村からさらに北東へ湯子川に沿って登り、下*川、上*川の里に着いた。 この辺は上保田庄 (藤原氏後裔の統括していたところ) 
*管理人よりお知らせ* ここは某宮妃殿下のご本家の地です。  

現在の有田郡有田川町上*川である。 前方の城が森は見えない、護摩壇山も幾山河の遠くにかすみ、近く若藪、石堂の連峰が眺められる。 下に湯子川の渓流が音を立てて流れている。 田畑約三反余畝 (約三十余アール)が開墾されて食料に事欠かないように苦心されていた。 川へ下ると岩間を流れる清流には川魚(アマゴ、鮎など)が釣れる。 家屋は大きな老杉で囲まれ、川原から眺めても見えない。 神代杉の並木、桧、高野槙、栂、樅、楢、椎の中にあった。 現在の**家は、二回の火事のため家の前の大杉が焼けてしまって家屋がよく見える。 

上*川に着いた頃は、東の山の端から月が上がって老杉のすき間を洩れ、屋敷を照らしていた。 維盛は月を眺めて孤独なお万のことを思い出していた。 その夜は床につくのが晩くなったが、疲労からか維盛は異様な亡霊を見た。 夢  狂気の到来である。 その夜はまだお万の投身を知らなかった。 妄想と悲壮感のうちに眠っていた。 翌朝、新築の維盛館を一巡りした。 館は木の香りに包まれていた。 外に出て杉木立から霧海を眺める維盛。 館では郎党の者どもが、維盛を迎えたお祝の祝宴の準備に忙しく立ち働いていた。 

杉桧造りで屋根は茅葺、館は本宅八畳二間、六畳二間、中庭を隔てて、離れ座敷があり、「行かずの間」 を造って、この間だけ、「女人不浄」 として妻といえども婦女子は入れなかった。 想うに、昔は大事な密談の場、お家の重要会議の室が必要であった。 女人禁制は、女は口軽しとした考え方に立ったものであろう。 乳門、くぐり門のところに門部屋も造って警戒を極めていた。 馬場もあり、馬、牛小屋も設けていた。 重影と石童丸は具武の間、門部屋に詰められるような仕組みの館であった。 郎党も庄屋もそれどれ喜んで迎えた。 ・・・・・略


                    
維盛の上*川潜居

有田川上流の山魚も、竜神のアメノウオ(アマゴ)と同じく、水温の低い清流に住み、全身に赤い斑点のある魚である。 警戒心が強く釣りにくく、湯子川の人は釣り、または網で取った。 また支流の五郷側でも漁れた。 住人は山峡の渓谷の斜面に棚田を作り、村をなしていた。 渓流に沿った山の中腹にある上*川は、春は鶯、山鳩に起き、初夏はほととぎす、蛙、河鹿に慰められ、 年に一度、旧暦六月三十日がお祭り。 真夏はいとも涼しく、秋は仏法僧、鵙(もず)鹿の声。 中秋は名月に幾重の山なみを打たせて、冬は全山白雪に包まれ、榾火(ほだび)をかこんで春を待った。 **屋敷の下の山、峡谷には家来たちが落ちついた。 

維盛は**弥助(または弥祐)平維盛と名乗り地士となった。 与三兵衛重影も宅田弥左衛門と改め、石童丸も湯川金次と改めた。 矢筈山を隔てて八幡村(現在清水)という里がある。 高野山へも近いが道は険しく、生石高原が遠く霞んで山脈をなしていた。 下*川は当時宅田の関係で大和の吉野との交流もあり、後の世に至って、紙漉きを吉野から教えられて、原料の楮(こうど)、三椏(みつまた)が豊富なため、紙の名を保田紙として有名になり、1シーズン、一戸二束(千二百枚)の紙を作って生計を立てたという。 この紙は傘、うちわなどを作ったという。 また養蚕も盛んであった。 

  ♪ おいま(娘の名)大蔵(地名) ♪ おたけ は遠井に ♪ おます *川の上様によ〜 ♪ の地唄が今でも盆おどりにうたわれている。 

家造りは平安時代の都の切妻の錣葺と異なり、湯川辺りの山奥では茅葺屋根であった。 有田川の上流は高野連峰より花園、押手を経て流れ、湯子川と合流して蜿蜒たる有田川となる。 上*川(加美由加波)小名室川といった。 今でも有田川支流、湯子川に沿うて山の山腹に邑(むら)が残っている。 ・・・・・略


          
     旧家   (地士 **弥助)

上*川は幾山河の奥で前人未踏の地、亭々と高い大杉に隠れ、絶好のかくれれ場所であった。夏は涼しく水清く住み心地はよく、冬は雪に蔽われるが、鹿の毛皮その他の着衣で温かく、薪で充分暖をとった。春は若葉、青葉、秋は紅葉。 維盛はここを安住の地と定めた。 美貌の持ち主であった維盛はここでも崇拝を受けた。 布令で口が封ぜられた。 代々**弥助と名乗り、後添いに正式の第三の妻をめとることになった。 それまでは侍女とせるものが多かった。 ・・・・・略



             
春風秋雨の章          維盛の延命

「紀伊風土記」 によれば、**弥助は村民もその裔も多くなり、星移り年変わりても代々**弥助を名のり、元和五年(初代紀州藩主)よりは禄米を賜り地士となる。初代**弥助三十九歳(建久四年)に至って男子(兼盛)出産、嫁ごは上保田荘の藤原氏の後裔の者で、八幡村に住み大庄屋の出である。

臣従していた弥左衛門重影も金次(石童丸)も喜んで仕事を手伝い、よく仕えた。 四季の山菜、わらび、ぜんまい、椎飯、粟、ひえ、米粥、麦飯、松茸、大根、蕗(ふき)などが食膳に上がった。 猪、兎、狸なども獲れたが、よくカモシカや猿の害があった。 重影も諸所の状況を窺うために変装して旅に出て吉野葛などを仕入れてきた。 時まさに新緑の候、護摩壇山を越え、加納川の五百瀬を経て十津川に出で、辻堂より乗鞍岳を越えて吉野に入る。 

昔より行者は大和下市より洞川を経て大峰山に入り、行を行う。 女人禁制であった。  浄瑠璃の 「義経千本桜」 ”釣瓶(つるべ)すしや” の段に、
  春はこねども花咲かす、 娘が漬けた鮓ならば ’なれ’ がよからうと買ひにくる  風味もよし野、
    下市に売り広めたる所の名物、  釣瓶鮓屋の宅田弥左衛門・・・・・ とある。

ところで、重影はある親切な修験行者のすすめにより下市に落ちつき、熊野で覚えた 「なれ鮓屋」 を経営することになる。 下市は山伏や吉野の桜花の見物客を始め、吉野杉の木材や杉皮などの売り買いで大いに賑わい、これが繁盛のもとになる。 大和の津と言われた。 ・・・・・略


                     
上*川の里の維盛

入道雲は山々の上に峰を重ねたが、 間もなく崩れ、雨粒が棚田を降りこめたが、やがてもとの青田に返った。 道の青芝も雨雫を垂らしていた。 もう庭の池の真萩が力強く、山の初秋の風が身に沁みるように、裏の山が夕日を浴びていた。 蜩(ひぐらし)や法師蝉の声に秋の気配を感じる。 維盛がこの上*川に引越して数年経っている。 

昼が終わり、夜がはじまろうとして、何か哀愁に似た日が続く。 稗酒の晩酌、夕食もそこそこに、燭を灯して子の兼盛と話すくらいのもので宵寝をする。 朝は雑司(でいり)のお百姓が来る。 屋敷内の杉谷明神へお詣りする習慣であった。 「万葉集」 にも出てくる鰻漁りもする。 ・・・中略 ・・・ また人の有情に浸って杉の馬場で乗馬の練習に汗を流した。 晴れた日は日光神社へ詣る。・・・・・略

・・・・・元久元年六月、四十七歳で亡くなっているから八島から逃亡して二十年長生きしていることになる。 義経に比べて十五年もこの世に長生きして子孫を残している。 ・・・・・略
七人の郎党は 中尾伝八、下川与助、温井左衛門、沼田官次、西九朗助、戸山与惣次、東禎蔵と記録している。 これらの人は護身その他、情報活動および生活活動にしたがっていたものである


               
     白雲去来 (弥助ずし)

義経は兄頼朝に追討せられ、文治三年(1187)二月七日、西国落ちしたが、途中、暴風雨に遭って浪速の高師の浜へ漂着。 義経と妻妾の静も、紀州生まれの弁慶の案内で、主従一行は熊野へ落ちんと仁徳陵陵、百舌古墳群を過ぎ、古市の古道、穴虫峠、大和五条より下市を過ぎ、吉野に向かう。・・・中略・・・維盛の下市行きは、その後年のことであったろう。 

大和の下市、吉野山をめぐり、源平御大将の道中に、たくさんの因縁話が残されている。 宅田家は大和吉野郡下市の武門、宅田弥左衛門。 昔は平重盛の旧臣で、ふとした失策から野に下ることになり、重盛には寵愛を受けていながら止むなく帰国する。 その代わり維盛の相手として同年で遠縁の者、与三兵衛重影を重盛に仕えさせた。 重盛親子に寵愛を受け、日頃維盛と兄弟のようにしていた。 

重盛は死に臨んでとくに重影に、 「維盛の将来よき友としてよく仕えるように頼むぞッ」 と真実をこめて頼んだ。 重影も、重盛の愛情のこもった心に動かされ、維盛に一生を捧げる決意を固くした。 維盛出陣の際は、いつもそばを離れることなく、身分こそ違うが影の形に添うが如く仕えた。

宅田弥左衛門は、京洛から帰国して間もなく、吉野杉から箸、三宝なぞをつくって腕の器量を生かして生活していた。 たまたま、竜神在中の与三兵衛重影の帰国をうけ、熊野で覚えた 「鮎のなれずし」 の手ほどきに重影の試食を何回となく受け、塩と桶の圧し加減がコツとわかり、桶の上から縄をかけてしめつける技も覚えた。 容器が釣瓶に似ているので 「つるべずし」 という名が起こった。

宅田特有の素材を生かした風味すぐれたものができるようになった。 現当主は四十八代目で、宅田弥左衛門を名乗る。 その庭園には今もなお維盛塚(記念碑)、お里黒髪塚(彰魂碑)がある。 弥助ずしの主人は孤高の人、品をそなえている。 「吉野川には棲むかよ鮎が わしが胸にはこひが住む」 田唄、神唄、舟唄、伐唄、金堀り、盆踊り、念仏踊りに出てくる。 ・・・・・略

後年重影は下市で 「鮨屋」 をして出世する。 大峰山行者の街道筋で、吉野詣での客に吉野杉の箸などを素材にした産物を買ってもらった。 下市は俗謡に ”山家なれども下市は都、大阪商人の津でござる” とあるように大阪・京との交流があった。 **弥助維盛は紀州上*川に住み、後年、重影の招待で吉野を訪れたことがある。 なぜ 「弥助ずし」 と名づけたかは分からないが、与三兵衛重影が宅田弥左衛門の娘お里と婚を通じ、宅田家を嗣ぐ。 後年、維盛を迎え主人維盛の弥助の名を形見とし 「なれずし」 に、**弥助の俗名弥助と名づけて、後年に維盛の魂を残そうと考えた、その忠節の心遣いであろう。 ・・・中略・・・

重影も維盛とは同じ年生まれ、たびたびの下市通いの中、なれそめの女、お里を女房に持ち、娘(八重)もできた。義兄の権太(与助)とは家督争いで少しは宅田家を困らせたかもしれない。 月日の経つのは早いもので、二、三年の中に立派な家屋敷をつくり、時はすでに鎌倉の世になり、平家の落人への捜査もなくなった。 ある正月の終わり頃 (元久元年)、朝とはいえまだ庭には残雪があり、もう梅は咲いて香りよく、木の芽もややふくらみ、行き交う行者も少しふえてきた。 吉野の谷は風はすくないが霧が濃い。 桜千本、山桜はぼつぼつつぼむ。

重影は久しぶりに紀州上*川へ旅立つ。 道中幾山を越えて十津川や護摩壇山の杣道を通り、山霧は幾重にも立ちのぼり、鶯の笹鳴きや杣人の木を切る音も谺(こだま)して、いつしか護摩壇山上に登る。 重影も心中なつかしく、山頂から昔住んだ竜神の連山を打ち眺める。 石楠花はまだ咲いていない、山焼きの煙が光って見える、もう高野も近い。 霧立ち込めて見えないが滝口入道殿も達者か、死者となっている我が身、合掌して道々洋歯(しだ)類や苔類に悩まされ、楪(ゆずりは)や山椿、群生の高野槙、大森林の山道を行く。

狐の鳴き声を聞き、鹿も猿も身近に見ながらついに有田郡へ着いた。 落陽の光に山は美しい。 上*川の維盛屋敷の潜り門に立つと、殿も出て来たって挨拶を交わす。 二年越しで懐かしく、いっしょに案内さる。 上*川屋敷も以前よりやや広くなり、下の渓川の水音も高く、雪解けの流れはゆたかで深山幽谷とはこのことである。 

**弥助は殊の外喜ばれて互いの身の健在を祝う。 おなじ逃亡の身とはいえ、天が下宿かすところありあり、これがみな熊野権現のおかげじゃと述懐する。 重影も下市で入手した都の状況を話して世の更けるを知らず、その後平家の残党の状況、鎌倉幕府の成行きのことなど、また諸国修験者や吉野山神社詣りの人々より得た話など、委細を知らない維盛に報告した。 

最後に長門壇ノ浦の引島で知盛殿が総大将として待機応戦したこと。 合戦は引き潮で平家方利あらず、ついに阿修羅のような太刀合戦となり、教盛、経盛殿錨を負うて入水、次いで資盛、有盛、行盛殿も同じく、御大将知盛卿、能登殿も最後まで奮戦。 三月二十四日、尼の二位殿は神璽を脇に御座船より、宝剣を腰に主上安徳帝を抱いて潔く入水された。 建礼門院は入水後救われて捕虜となり、今は京大原の寂光院に世を忍ぶ身となり哀れな生活であった。 

なお、生け捕られた総大将宗盛、平時忠卿以下三十人以上は鎌倉に送られ、建礼門院はじめ京には大納言、公家、北の政所、女房たち十人余りに送らる。 その他はちりぢりに逃亡、または生捕の方々は直ちに鎌倉へ送られて何らかの下知があった由とのこと。 ただ申し上げにくきことながら、御若君六代御前には、やはり捕らわれの身となり、文覚のとりなしで死罪御免となった。 文覚の弟子となって妙覚と称し、文覚とともに諸国修行とやら、おいたわしく存じます。

猜疑深い頼朝は自分の兄弟まで血祭りにした残忍な男だとの評判で、その祟りもあり、壇ノ浦、平家の怨霊をうけるでしょう。 そのためか、頼朝五十三歳で、鎌倉で急死したとの報せであります、と涙ながらに重影は語るのであった。 維盛も一部始終を聞いていろいろな情念の中に瞼をつむり、一筋の涙が頬を流れた。 


                
生者必滅の章        うたた寝の維盛

上*川村はここ数年間戸数も増え、人口も多くなった。 村の決まりで、毎月交替に**家へ作男一人、手伝い女二人が毎日奉仕にきてくれた。 夏は杉木立をわたる涼風が家の座敷に吹いてきた。 昼まで仏壇を整理して、祖父清盛、父重盛の霊位を祭り、盂蘭盆や祥月命日に必ず仏前に合掌した。 毎年、平家一門の仏事のことなど郎党の者と打ち合わせもした。 手伝い衆もふえた。 盆には高地の爽涼さが肌にせまってきて、さ霧の流れも遠くへ去った。 ときにはうたた寝もした。 ・・・中略・・・ 

盆前の日盛りのひととき。 蝉しぐれに部屋は蒸していた。 あたりを見れば衣桁(えこう)に狩衣、白麻の下着など、棚に烏帽子、経文、数珠、本床には太刀が置かれていた。 もう室一ぱいに香木の焚かれた香気がそこはかとなく漂っていた。 上*川で侍かれた妻。 盂蘭盆には必ず供僧や棚守(神宮)たちに仏の供養を頼んで、回向を怠らなかった。 


                    
  維盛終焉の地

維盛は孤島のような山奥で、約五千町歩(約五千ヘクタール)の山林、三反半(やく三十五アール)の田畑をもらいうけ、地士となって無名の主人として暮らした。 上*川に移って間もなく郎党の世話で、郷士の娘の二十歳過ぎの、臈たけき才女と婚を結ぶ順縁であった。 出ず嫌いの維盛も初代**弥助と名乗り、四十歳近くになっていた。 翌年、長男**弥助兼盛が生まれ、大変に可愛がった。 

維盛はかって重盛の情報で、北の方も六代も、高雄の文覚によって頼朝から助命されていることを知っていたが、維盛も北の方や六代もお互いの消息は知らなかった。 正治元年、頼朝急逝、翌年六代妙覚に謀反の気配ありとて、妙覚は正治二年(1200)殺された。 このことも重影の注進によって知り運命と諦めながら感極まるのであった。 

維盛は昔、重衡の奈良焼き討ち以来、南都の僧侶たちに ” 平家憎し” もあって大和入りは危険なので、護摩壇山を越えることはなかった。 年は移り幾星霜かが過ぎた。 大和ゆかりの重影の計らいで、一度大和の下市へ旅することになったが、これが初めてで終わりだと思った。 神納川(寒ノ川)の五百瀬で宿泊する。 後に上*川の弥助維盛の裔が芋瀬荘司家の養子となった。 野迫川の平部落へは一度、部落の家来の案内で旅をする。 今もなを維盛塚が残っている。 

旅は人を惚れやすくするものである。 春は桜、秋は紅葉の山容に心が慰められ、旅に惹かれるようになる。 さらに下市の宅田家においても重影夫婦の心からのもてなしに全く満足したのである。 文楽床本集、 「義経千本桜 釣瓶すしやの段」 の終わりに、 思ひはいづれ大和路や、吉野に残る名物に 維盛弥助といふ鮓屋、今に栄ゆる花の里 その名も高くあらはせり。 と書いている。 

一度は下市への旅をして世の移り変わりに人心一変していることに自信を得た。 四国のあちらこちらに平家の落人部落のあることも知って、再び平氏が世に現れることもあるべしと心ひそかに喜びを抱くようになった。 上*川は孤島のようで伝染病もなく、環境に恵まれたが、父重盛に同様維盛も胃腸が弱かった。 長男兼盛はもう七、八歳になっていたが、虚弱の体質であった。 

夜ともなれば、夏でも山峡の冷気が迫ってくる。 維盛は下市へ旅した疲労も加わったせいか、平家の嫡男として生まれた彼も、一説では元久元年(1204)六月三十日、享年四十七歳で妻子に看取られながら波乱の潜居の生涯をとじたといわれる。 しかし平家発祥の地、伊勢芸濃町の成覚寺古文書によれば、維盛は伊勢芸濃町落合で五十三歳で死去したとある。 大台ケ原の北方、伊勢街道の難所を歩く彼の精力はすでに消耗していたとも予想される。                     
                                                              
 完



          
管理人よりお礼とお知らせ 

平家の落ち武者の核心紀州の深山幽谷、維盛の里に住まわれ、奇遇にも私と同姓同家紋のお祖母さん(乃ぶさん)によると、昔々この村がたびたび野武士の略奪を受け堪らず、龍神村に強い侍達が潜居することを知り、このあたり一帯の広大な山林を差し上げて来て貰ったのが始まりだとおっしゃった。 この村へお供してきた家来の子孫だというお祖母さんの幼少だった大正時代まで1軒あたり年3日の奉仕を全村50軒で怠らなかったといいます(維盛卿の頃は毎日三人が詰めたそうです)。

村の子供は明治五年の学制発布まで**屋敷にある寺子屋へ通ったそうで、(**家には今も屋敷内に自前のお寺があって昔はお坊さんも居たそうです)このような主従関係が近年まで700年も続いたのは驚異ですが、全国に散らばった平家一門の総本山にふさわしい本家嫡流ならではの、郎党の子孫にとっての拠り所としていかに大きな存在だったかがわかります。

私はこの 『乃ぶ』 さん(2006年現在87歳)にお会いして、この書籍 『平家の秘蝶維盛』 の存在を知ったのですが、お祖母さんは ”自分が記憶にない本のことをどうしてあなたに伝えたのか” また不用心な年寄りの一人住まいなのに ”突然尋ねてきた人をどうして仏間にまで通したのか不思議でならない” と後日おっしゃいました。 まさか憑き物の仕業でもないでしょうが。 私が口籠ると話を先導してくれるほどの聡明な人だったので・・・私のほうが今尚不思議でなりません。 

乃ぶさんに教えられお会いできた**家33代目の奥方。 あのときの緊張、帰路の鳥肌の立つ興奮。 また後日偶然奇跡的にお会いでき、いかように使ってもよいとご快諾くださった、滅多に会える筈のない著作権を受け継がれた先代院長。余りにも偶然が重なり何か縁深いものを感じずにはいられないことばかりでしたが今はただ、一人でも多くの方に平家の落ち武者伝説をお読み頂き、泉下の著者、濱光治先生に少しでも微笑んでいただけたらと・・・そう願ってやみません。

                  お読みいただき本当に有難うございました  
      2006年2月  夕陽の衛兵    

この平家の落ち武者伝説は明治36年和歌山県那智勝浦に生まれ、後に和歌山市に浜外科病院を創設された濱光治医学博士が50余冊の文献の現地調査に怒涛の半生を掛けられた渾身の書で1977年発行、現在、和歌山県立図書館の蔵書となっています。 ご子息で著作権者であられる先代院長にH Pへの掲載をご快諾頂きましたが図書館の指導により抜粋とさせて頂きました。 また難しい字は独断で略字やカナ変換させて頂きましたことをご了承ください。
     
         諸般の事情を考慮し御当家及び地区名を自主的に部分削除致しました事を重ねてご了承下さい。
                                             
                                                   
                                               
 2006年2月 夕陽の衛兵

序にかえて

私の青春時代、大阪の大学での休暇の往復はいつも汽船であった。 ボーッと鳴り渡る汽笛とともに、孤島のような紀州熊野の勝浦湾を出航、間もなく那智沖に山成島が見えた。 この島こそ、平家の嫡男維盛が一ノ谷の合戦に破れ、八島(屋島)の戦場から逃げて平家ゆかりの熊野三山に詣で、ついに西方浄土を目指して、合掌しながらこの島で投身入水した。・・・・・略 
維盛入水で ”平家絶ゆ” ということが 「平家物語」 にある。 これは維盛の偽装入水で、彼はその後熊野の山中に潜み、知られたくない秘密の世界に入った。

史料や伝説を私の胸中に描いて十数年。 その史跡を知ることがいかに困難であったか、史実に乏しい中で役立つ僅かな史料や彼の歩んだ秘境に、カバンとカメラを携えて、いつも夢を描きながら彼の行方をたどってみた。 維盛の栄華の夢の跡は美しく颯爽と、彼が青海波(せいがいは)を舞うた時のようである。 清盛も心中よき愛でたき孫よと内心誇りに思った。 維盛の存在はつねに人間の欲望と権勢の頂点に立つ清盛に喜ばれたのである。 

その維盛は、長じて富士川、倶利伽羅合戦に無力の権力者となり、一ノ谷に破れ、八島での逃亡は卑怯と悲境で一路 ”没落の人生を生きる” のである。 そこに活路を求め、戦乱からの解脱へと魂を奪われ、生に魅了させられた哀れな公達としての道を辿るのであった。 これに比べ、平家の大将知盛は、長門に本拠をもち、源氏に追われて窮地に立ちながら、悠々関門海峡にたぎりうる渦潮と白旗の中で、覇者知盛は入水して壇ノ浦の藻屑と消えた。

維盛は生への執着と生者の苦行とを持った。 あたかも沈む真紅の太陽に、聖地メッカに向かって跪き、コウーランを唱え、一日の感謝を捧げているアラブ人の姿がほうふつするのである。 生者必滅とはいえ、生への執着は止まるところがない。 生とは何ぞや、剃髪の維盛の熊野への逃避行は、単なる哀れでなくて ”生” の一文字、妻子への愛着を感じながら、自己の存在をみつめた若者の活力が、一切有と無の境地をさすらう相を、彼の上に見るのである。 紀州と大和との深山を縦断した踏破に、生と死とを賭けて闘っている一つの若き魂・・・・。

平家発祥の地、伊勢にも再び根を下ろしている彼の裔は、色々な形で酸鼻と悲惨を味わった。 敗戦日本人の中には、自ら求めてサハラ砂漠ヤシルクロードの冒険を試み、戦争とは異質の苦難を試みる青年もある。 戦争を遠く、忘却の彼方に見ているのみの若き人々もある。 そういう若い人達のために、時代こそ違え、八百年昔の平家の残映像を敢て綴り、ここに上梓したのも、戦争のもたらす無惨な爪跡のひとつを知ってもらいたかったからである。
                                                                     著者

入水の章