戻る

上北山景徳寺 弓矢祭     2010      

平安末期、中央政権の平家を壇ノ浦に撃破した源頼朝方、即ち勝者である関東8平氏の畠山氏に端を発し、南北朝期西山に草堂を開いて後、子孫から遺臣へと引き継がれて来た弓矢の鍛錬は祭りに形を変え今日に至ったと伝えられます。
厳かにして哀愁を感じさせないのは敗者の落ち武者では無く、南北朝期の亡命平氏を起源とするところの晴れがましさ故なのか、徳川時代からは幕府を憚り、8日薬師に名を借りての儀式として受け継がれてきた弓矢祭は、あくまで厳粛にして少年の元服の自覚を促すのか、初々しくも彼らの凛々しさはなかなかのもので、まことに良い行事を拝見させて頂きました。

                              2010年1月8日   夕陽の衛兵       


                                                                                                          

動画 かぶりつきロングバージョン

元服の歳ぐらい?(小中生)の少年達が1月2日から弓矢と所作の稽古を始め、頭屋(行事の世話をする家)で精進し、厳しい1週間を過ごす慣わしだそうです。

この日の未明に氷の様な川に胸まで浸かる“水ゴリ”はお祭り気分ではできない荒行でしょう。

平家の落人

夕陽の衛兵トップへ戻る

薬師堂にも
   ギャラリーが

赤松一党を討ち取った大西助五郎の碑

奈良の落ち武者伝説

峻険な山を越えた所に同族だと仰る伯母谷・上垣内があるが後年の派生と見られる。
                    残念ながら其処には有る筈の古い石塔が一基も残っていない。

景徳寺弓矢祭   

今日の小春日和は
 精進のたまものでしょうか

吉野川から上多古川を遡りさらに支流の奥にその集落があり、以前は20軒あったそうだが現在は僅かに6軒が寄り添う。 長老と思しき方に由来を尋ねると平家の落ち武者部落だときっぱり仰った。  入り口の神社といい鎌倉中期の宝篋印塔や五輪塔が何よりそれを証明するが、数々の政変を潜りぬけたのが奇跡とさえ思われる程、奈良に於ける落ち武者伝説は稀有である。  私が墓を訪ねた限り、奈良に於いて平家の落ち武者1世の末裔と想える隠れ里は今の処此処と十津川であるが、上北山には南北朝に始まったといわれる平氏(関東8平氏の畠山氏)所縁の弓矢祭がある。 
                                        
         2008年   夕陽の衛兵   

紛れも無く鎌倉中期迄の宝篋印塔とみられるが
風化した相輪部の代わりに丸石が載せられている。  

   よくぞ守ってくださった。 m(_ _)m

それにしてもこんなお爺さんいなかったよなぁ  ぶるぶるぶる〜 (^^;

厳かですが矢が命中すると
        歓声があがります

石垣の上から動画を撮る霊



いまどき稀に見る厳粛なこのお寺には修行僧も居ました
以前、和尚にお逢いした折、何故か出家を勧められましたが ・・・ 
よよ               

動画 ロングバージョン
動画 ショートバージョン