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mao 

5m

幅 20m 

空海伝説

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高野山で眠るの ! と霊は言った  
高野山 奥の院

10m

絵 おいら作   

2009年5月   夕陽の衛兵  

奥の院 納骨堂 

   灯篭堂

入定されたお大師様 

 お姿

5万体のお大師様が祀られていて 
         50年ごとに法要 

  平時はどなたでもお参り出来ます

賽銭箱 

御廟  

拝殿 

25m

古くより高野山流域は勿論、和泉や南河内に至るまで真言宗徒が多かったが、戦国期の紀州攻め等により真宗に宗旨変えさせられたそうな。 徳川の代になって復帰したり、徳川の浄土宗に倣い現在に至る信徒も多いが納骨は変らず高野山であったと聞く。 全国各地の大名の墓を見れば徳川幕府の庇護による隆盛が良くわかる。   
それにしても昨今、資産隠しか税金逃れの馬鹿でかい社名入りの墓には我々だけではなく、外国人観光客ですら目を背けるのではと、つい僻んでしまうが、お大師様は只笑っておられるのだろうか。
                                                             南無大師遍照金剛     

私見 空海 

空海は774年、讃岐国の郡司佐伯家の3男に生まれ幼名を真魚といった。 15歳で桓武天皇の皇子である伊予親王の家庭教師をしていた母方の叔父に学び、18歳で京の大學寮に入るも19歳を過ぎ、これに飽き足らず山林修行に入ったといわれるが31歳で入唐までの足取りは諸説あり定かでない。
入唐寸前まで “一私度僧” 早い話が無免許僧であった空海が超エリートの最澄より早く遣唐大使の乗る第一船に乗れたのは謎とされるが、途中で嵐に遭い航路を逸し海賊と間違えられるも遣唐大使に代わって嘆願書を書いていて、その辺りに鍵が有りそうである。  最澄の乗った第2船も運良く唐へ渡ることが出来たが、第3船と第4船は辿り着けずに難破した。 
 

一説によると空海、修行に明け暮れるも渡唐の念止み難く、旅の途ついに高野山麓で運命の出会いに触れる事となる。  当時、寺院建立に欠かせなかった金銀の採掘精錬に唐の国から鉱山師が招かれており、唐における密教の衰退、国内仏教の荒廃を何とかせねばと思う空海と鉱山師が、密教を世に広め存続させなければならないという共通の信念に燃え、7年の間、鉱山師より語学を学び、中央へ収める金銀を蓄えたというのである。  まぁ早い話が横領であるが、この鉱山師が使命を帯びていたとしたら有りうる展開である。

そのようにして私費で唐へ渡った空海は、ペラペラの中国語と聡明さにより僅か2年で唐国内の多くの弟子が叶わなかった密教の秘法を伝授され後継者となり、生まれ変りとされた不空三蔵ゆかりの大興善寺の500人に大判振る舞いをして謝意を表している。  帰国前には土木工学も収め、師の勧めで早々と帰国するが入京を許されず大宰府に留まった。 正規の留学は20年だったので、もし空海がそうしていたならあれだけの偉業は成し得なかったというのも肯けるが、大器にして恐れるものなど無かったのであろう。 


最澄の協力を得、2年後槙尾山で入京の許しを待ち程なく高雄山に入り、それから7年後には高野山を拝領、一説には山麓一帯に眠る水銀を遣い高野山を開山したというのも、多く残る地質学者然とした空海伝説を想わせ、あちこちに伝えられる “お大師様の井戸” も実は鉱脈探しでは?などとつい邪推してしまう。  唐の国から来た鉱山師が空海に与し、それを成し得た空海には総てのストーリーが判っていたかのような、そして空海こそ密教代4祖不空三蔵の生まれ変りだという思想に共感すら覚えるのである。  と、空想的になってしまうのもお大師様の偉大さゆえであります。

そして高野山拝領から5年後、故郷讃岐にある日本最大の溜池、満濃池決壊による改修工事に、朝廷から派遣された築池使が3年の歳月を掛けながら敗退、続いて派遣された空海が唐で学んだ土木技術を駆使し、アーチ型の堤防を僅か3ヶ月で築くなど、空海への民衆の献身的な信望の篤さがわかります。  また、大雨による放流の際の堤防決壊防止には岩盤を繰り抜き対処したそうで、僧とは別の偉大な科学者的なマルチな指導者の姿が見えてくるのです。  

それから2年、東寺を賜り、5年後その東にあった藤原氏の私邸を譲り受け、初めて庶民に門戸を開いた教育施設を開設されています。  高野山隠棲はそれから五年後のことで、お大師様は穀物を絶ち禅定を好む日々を送られ3年後、満60歳で入定されました。  入定は入滅ではなく永遠の禅定だそうです。  一説によると第4代座主が醍醐天皇より弘法大師の贈り名を賜った御報告をする為、御廟へ入り厨子を開くと大師の髪が30cmも伸びていたと伝えられています。  そして1200年経た今も禅定されて居られると信じられています。       


        入定から86年後、醍醐天皇より弘法大師の諡号を賜りました。

                                     

             南無大師遍照金剛