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平家の落人

案内板には輝盛殿切腹岩 とある

16代 江馬輝盛候の墓は安国寺の和尚が建てたと伝えられる


北条氏の三つ鱗と揚羽蝶が並ぶ

五箇山・白川郷・根来衆は繋がるか

夕暮れまぢかの五箇山

白川郷・五箇山は室町末期までの白山信仰である真言・天台などの伝説が伝えられるが戦国時代、一向一揆(真宗門徒)によって真宗王国に組み込まれていったという。  紀州・河内・和泉の根来衆(真言)が秀吉軍に撃破されるのと同時期なのが興味深い。 今の切褄の合掌造りは真宗の影響を多く受けているというが稀に寄棟の真言造りも残る。

五箇山の有史は南北朝からで、南朝の遺臣が養蚕や和紙を持ち込み、さらに五箇山を開拓したという説があるのは鎌倉期の墓が見つかっていないからに他ならない。  戦国時代には黒色火薬まで製造していたといわれ、根来衆との繋がりは同じ南朝方にあって動かし難くなったものの、残念ながら真宗による破壊により戦国以前の墓は地中深く眠り、1基として拝む事が出来なかったのが心残りではある。

今回の旅は空振りに終わったが、畿内と白川郷・五箇山を結ぶ闇の道が後年火薬の道に使われた筈であり、その昔ネゴロの草が所々に足跡を残したその道が今のせせらぎ街道ではとの確信を持つに至った。 その手掛かりとして下呂温泉の西北と高山市郊外に法則の地名を残しており、そこに古い墓が残ることを願って近々訪れる予定でございます。     

                                                      つづく            2008年  6月


数日後
飛騨の裏街道にある垣内(かいと)を訪ねたが、このあたりも真宗王国に呑み込まれ、真言・天台系の白山神社は荒れ放題なのと対照的に真宗のお寺はすこぶる立派であった。 秀吉の刀狩と墓の廃棄によって歴史が闇に葬られ拠り所と牙をなくし、その後は善良な農民としてひたすら平和に過してきたのが窺える。

だが、飛騨高山の郊外にある垣内は飛騨の例外であった。 今から850年ほど前、北条時政に預けられていた平経盛の子が後にこの地の地頭となったのが江馬氏の始まりで、16代に渡り北飛騨を治めたが最後の武将輝盛は哀れこの地で戦乱の露と消えた。 13人の重臣が後を追ったが、その遺児が抹殺されること無く徳川の代を名主として過ごしたのは闇のネットワークに支えられたが故と見るのが最も合理的であるが、当然、徳川方での活躍があっての事だろう。

                                           
2008年  6月   夕陽の衛兵

白川郷や五箇山に平家の落ち武者伝説があるが当然否定論者もいる。 では倶利伽羅峠の合戦で破れた平家の武将や郎党の多くがいったい何処へ消えたのか?地図で見る限りでは五箇山や白川郷が一番怪しい。 おまけに否定論者の神経を逆なでするかのような平村や上平村まであるのは私のような落ち武者びいきにとって愉快極まりないが、書いた者勝ちの昨今当然袋叩きにされやすい宿命を併せ持つ。
戦国時代より白川郷で火薬の原料となる硝石(蚕の糞と土中の消化細菌の働きにより生まれる)を作っていたという噂を耳にして平家とは切っても切れない根来衆が浮ぶ。 

種子島で国内で初めて2丁の鉄砲が作られた時早々とその1丁を買い求め大量生産し後に薬きょうを考案、その効率の良い大量の早撃ち鉄砲で信長を散々困らせたのは全国に散らばる平家の残党と宗教絡みで連携を強め、ついには寺領72万石にまで勢力を伸ばした根来衆である。 貴重な火薬の入手に躍起となれば当然落ち武者のネットワークで硝石の生産に適した白川郷に辿り着く筈である。 

因みに、江戸初期には火薬1樽との交換奴隷50人で、それに反抗したのが天草の乱であったとも漏れ聞く。    

                                                      つづく             2006年 1月
     

平家の落武者

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戒名 旭光院殿天岳良英大居士

飛騨 安国寺に祀られたこの宝篋印塔は少なくとも鎌倉期の様式に違いなく北条時政に養育されたが故 頼朝に見逃された平経盛の子 輝経候の供養塔の可能性が高いが この寺より古く戦乱にともなう移設と考えられ破壊が凄く相輪や土台が無くなっている。

安国寺に祀られた
飛騨では珍しい五輪塔

真言・天台系の白山神社のわきに祀られた五輪塔の一部 空・風輪が歴史を物語る

郎党にとってはブランドの剣カタバミの家紋が河内・和泉・紀州の根来党を髣髴とさせる



白川郷のダムの湖底には このような五輪塔が無数に眠っていると思えてならない
          
 合掌