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伝承には安徳帝が山遊び中俄かに御発病、家臣達の必死の御看護も空しく、其のやや下方で崩御されたとある文面から、只ならぬ、突発的な攻撃に倒れたと読み取るのは穿ち過ぎであろうか?
頼朝の放った暗殺者の手に掛る不名誉など後世に残せる筈もなく、このように語り伝えたと推測するのは私だけであろうか?
またこの結末こそが数多居た筈の、替え玉でなかったとする所以ではなかろうか。 
義経が二位の尼に抱かれた帝を見逃す事に何の不思議も無くまたそれが後に自らも逃亡する結果を招いたとしても何ら矛盾しないのではなかろうか。

奇しくも義経一行が奥州へ落ちたその年の出来事である。
この二年後(1189)平家嫡流三位中将平維盛、熊野山中藤綱の要害に潜居中、源氏の刺客に矢を射られたが家来の剛腕により事なきを得ている。

  八頭町

     安徳の館

平家の落人

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それからの安徳天皇

安徳天皇を御祀りした神社

 平家の落ち武者と

貴重なお便り有難うございました。 今後とも宜しくご指導の程お願い申し上げます        2009年7月    夕陽の衛兵

安徳天皇御陵をとり巻く五輪塔郡

雪解け水を轟々と流す鳥取県私都(きさいち)川を遡ると源流に平家の落ち武者の末裔が安徳御陵をお守りする残雪の姫路の里があった。 平安末期、壇ノ浦を密かに脱出し鳥取県賀露港に上陸した清盛の妻二位の尼時子が孫の安徳帝を奉じ武将や女官達に守られて燐郷の住職、岡益の光良院、宗源和尚の案内でこの里に遷幸されたそうな。 だが悲運の安徳帝は僅か二年後、御病気により10歳で崩御されたと云われる。 嘆き悲しんだ二位の尼以下の侍臣達は泣く泣くこの(平地)の地に葬り神社に御祀りしてより代々その御霊をお慰めしお慕い奉って現在に至っているという。

 この里も時代の流れと大火などで戸数が減り御陵を御守りする方々も高齢者ばかりだとか。 あるお宅の側の真新しい石碑には 『1185年平家滅亡と共に安徳天皇御一行、私都郡姫路の里に難を逃れ付添武将
弥平兵衛宗清者あり、安徳天皇崩御後宗清は姫路の里で農民となり・・個人情報の為中略・・後世に伝承するものなり』 とある。 ご主人が村の将来を憂いて一昨年にこの碑を建てられたそうである。 話を伺った御祖母さんの言葉は古典的で、すこぶる難解、80歳半ばをとうに過ぎているとお見受けしたが凛としたその佇まいに800余年の憂愁の里の御陵を守る最後の女官の幻を見た。
          
                                                 
                                                                                                                                                                                    2005年4月  
夕陽の衛兵

ウィキペディアより

おちおり

創建は800年代と言われる。
左甚五郎 (多くの名工を集約した架空の人物説あり) の作とも言われる投げ込み造りの岩屋堂

因みに、本邦きっての名工ともなれば、当然その名跡が受け継がれてゆくのは歌舞伎界や相撲界に限らず我が国の伝統ですなあ。


平家の落ち武者或いはその子孫の開拓村に多く共通するように ここも真言宗であった為 宿敵秀吉軍に焼かれたのか。
この本堂だけが焼け残り、後年立て替えられたと言われる。
祀られている御本尊が弘法大師(33歳)の作といわれるのが残り得た所以か。

平家の落ち武者子孫の里か 鳥取県岩屋堂

岩屋堂近くに居並ぶ五輪塔群にその後の徳川時代における一族の繁栄ぶりが伺える。 これは近畿における他の平家の落ち武者開拓村と同じく秀吉の焼き討ちにも懲りず後の大阪夏の陣に徳川方で活躍した事を裏付ける。 当藩池田候の紋所は輝政候が父恒興の乳兄弟、平家の後裔織田信長公より拝領の揚羽蝶で寺の紋にも残る。 平家の落ち武者伝説が数多く残り得た所以であろうか。
       
この地域は他の平家の落ち武者子孫の開拓村同様、後年上流の落折等のような隠れ里より展開し活躍したものと推測するが・・・ 。

  小敦盛と呼ばれる小さな五輪塔が祭られている
            とすると ここは敦盛卿縁者の里だろうか。

1184年、平敦盛(清盛の弟の経盛の末子)は一の谷の合戦で、たすけ舟に逃れんと馬を海に乗り入れた時、熊谷次郎直実に尋常の勝負を挑まれ敢然と引き返し討ち死にしたとも聞く。 なれば最早公家気質の平家にあって若干16歳の天晴れな若武者であり既に子がいたという。

始め平氏、後に源氏に仕え本朝無双の勇士と称えられていた熊谷次郎直実であったがこの8年後に発心、念仏行者「法力房蓮生」として法然上人に篤く帰依している。  都から故郷の熊谷に戻る直実は浄土と上人に背を向けてはならじと、馬に逆さに乗っていったとある。 (熊谷寺蔵画より孫引) 高野山には敦盛と直実の墓が並んで建てられている。

須磨区一の谷の2号線沿いにある敦盛塚は鎌倉幕府の第九代執権北条貞時(時宗の子)が造立したという説があり全国第2位の規模で3・95mの高さを誇る。 800有余年経た現代も献花が絶えないのは彼の潔さへの賛美でしょうか。

岩屋堂から国道29号線を登ると戸倉トンネルの手前に経盛卿(敦盛の父)主従20余人が落ち延びてきたという落折の里がある。 以前は32戸あったそうだが現在ある14戸全てが平家姓である。 経盛卿が高齢だった為血筋が絶えたのか、頼朝以後流域へ展開したのか、はたまた後年秀吉による破壊の後平和路線を貫いたのか、五輪塔が極端に少ないのが特徴である。 
古老の方に姓の所以を尋ねると(全戸)平では余りにも憚る(はばかる)からではないかとおっしゃった。 姓を定めた明治初期は陸の孤島であり村人の思いは察するに余る。 『平家々人の村』との介錯が的を得て妙である。 30数代800有余年只ひたすら経盛郷の菩提を弔ってこられた郎党の子孫の方々にとっての、まさしく平家の落ち武者部落である。

天正年間、近畿に於ける他の平家の落ち武者部落同様、宿敵秀吉軍に攻められた事が其の裏付けの一端を担う。 何故なら、秀吉は一般農民には、例えそれが豪族等に追随するものであっても一切咎めなかったからである。 この村が関西一円の他の平家の落ち武者部落と宗旨(真言宗)を同じくし、其の連携に止まらずこの地方の枢軸と見做された故の焼き討ちと見るのが最も合理的であるが、是とて平家の落ち武者否定論者同様現段階では私一個人の推測の域を出ない。  が、人口僅か600万の鎌倉時代、4月でさえ雪の残る、隠れ住むにしても困難を極めたであろう深山幽谷の辺境の地に高価な石塔と伝承を残している事実は動かし難い。

               大日本百科事典には根来衆(真言宗)が全国の落ち武者を結集、南北朝以降戦国末期まで拡大を続け秀吉に刃向かい自滅したとある。  

墓地を覆いつくしていた大樹、一位(いちい)の木は其の硬さゆえ天皇よりその名を賜ったとあり、成長の遅さも想像に難くない。
これ程迄に成長するにはいったい何百年かかったのだろうか。

平家の落ち武者の里 鳥取県落折

経盛卿の墓(手前)と宝篋印塔(通常は没後100年経て建てる供養塔)  左後方の数基は郎党の墓か。

余りにも極端すぎる五輪塔のバランスの悪さや、後方に建つ室町期の隅飾りを持つ宝篋印塔の相輪部欠損は、秀吉軍による破壊の後、替わりに五輪塔の風、空輪を載せるなどしたものであろう。

経盛卿が隠れたという洞窟だが現代は住めるほどの広さは無くなってしまっている。

             落折のご関係者の方からお便りを頂きましたのでご紹介させて頂きます

落折からひとこと。私の曾祖母(慶応元年生まれ)が嫁に来たときは村に家は5軒しかなく、男衆は皆腰に短い刀をさしていたと聞いています。また平経盛の隠れた洞窟は母の子どもの頃、昭和10年ごろは、人が数人立って入れる大きさがあり、奥へと続く抜け穴があったそうです。屋内で焚き火のできる程大きな神社が村はずれにあったそうですが、失火で戦時中に消失したようです。もう語り継ぐ人も少なくなりました。 (抜粋)