平家の落ち武者伝説を尋ねて、80過ぎのお祖母さんに声を掛けると畑仕事の手を止めて愛想よく応じて下さった。 この集落は多くが同姓で他の数軒は入植者だとか。 昔は他村から大勢炭焼きに来ていたと聞いて『とんと十津川ご赦免どころ』の詩が浮んだ。 聞くほどに別天地の響きが心地よい。 ここには墓の藪と呼ばれる石塔郡が有り、中央のどっしりした五輪塔(墓)が左右併せて9基の宝篋印塔(供養塔)を従えている。 

由来を尋ねると玉置山に祀られていたのを廃仏毀釈により他へ移しその後この場所へ祀られたそうな。 古来の神道に立ち返り53箇所にも及ぶ寺院を打ち壊したのは尊王一筋の十津川と後鳥羽上皇所縁の隠岐以外に無いという。 資料館には命がけで隠したといわれる仏像が数体展示されているが当時の村人の心中はいかばかりであったのか。 この地区は1399年に玉置下野守直虎が折立松雲寺、樫原玉林寺を開山したのが最初だとあるが直虎といえば、一の谷より遁れた平家の落ち武者伝説の人である。

和歌山県立図書館の蔵書で濱光治博士著の『平家の秘蝶維盛』によると維盛が熊野浜、宮王子の補陀落寺で舎人(家来)武里に渡した平家の重宝、名刀子烏丸は天国の作、光沢は烏の濡れ羽色であった由、旧津島藩主宗家に移り、明治15年皇室へ献上、御物となる(子烏丸はもともと3振りあった)。 また他の1振りは、那智から十津川の資盛の子に渡り、(一説には八島の総大将平宗盛に手渡すとある)明治22年迄十津川の神納川小松家に伝わったが当時の吉野郡長玉置高良氏の手に渡る(別名むかで丸)。 もう一振りは清盛公の烙印、妹尾太郎兼康が所持していたが出雲大社に奉納したといわれる。

神納川の五百瀬(政所)は芋瀬荘司の代々管領して、紀州有田郡上湯川小松弥助家より入籍相続し、生計を立てていた・・・小松弥助維盛の実子兼盛より19代目(ふる盛)弟権八、五百瀬家へ養子となり、大阪の陣で討ち死に・・・とある。 新宮の垣内高彦氏著の平家の落ち武者『平家の落人の里熊野川町篠尾』県立図書館蔵書にも十津川の玉置直虎の事が書かれている。 近畿の平家一門は戦国時代挙って徳川方に味方した為秀吉に迫害を受けたが徳川の代その子孫が報われ明治に至っている。

陸の孤島もお祖母さんの子供の頃には大音響を轟かせてプロペラ船が上がって来るようになりマグロの刺身など珍しくなかったそうで、かなり裕福な家に育ったのかと思えば、ごく中流だったそうで私の育った紀州の僻地に比べると夢のようである。 お祖母さんの家には牛を飼っていて娘時分、糞をカマス(ムシロで作った入れ物)に入れて谷間に作った棚田へ担いで行くのに糞が背中で発熱して暑くて堪らなかったと言って笑っておられた。

牛が必要なほど田んぼがあったのに一粒の米も採れないとする文献が多いのは御赦免地ゆえの憚りだろう。 女中さんも他村から大勢来ていたそうで田んぼの無い家はその頃ブランドの讃岐米を食べていたという事から当時の材木景気に沸き返る十津川が想像出来る。 プロペラ船の無い頃は荷物は船に載せ、人足が新宮からロープで引っ張って来たという。 材木で筏を組み毎日のように流していた子供の頃、兄さんがいつもウナギや鮎を獲ってきてくれたといい、ダムが出来てからは鮎の味が落ちたと笑っておっしゃった。 

お祖母さんに会って勤皇の志士の里十津川のイメージが少し和らいだのは素朴でその底抜けに明るい笑顔のせいだろう。 長男だったお祖父さんの小学校の卒業証書には『卒業生 奈良県士族 ○○○○』と書いてあったそうで、明治政府の気遣いが解る。 十津川全戸の長男が士族を継承したというのも史上稀に見る快挙である(当時、大塔村、野迫川村を含めた日本一広い十津川村の人口約12000)。 

十津川郷士について少し触れさせて頂く、幕末 十津川郷士と親交のあった坂本竜馬と中岡慎太郎が十津川の名を騙った刺客に切られた事に憤慨し、
陸奥宗光(紀州藩脱藩、後に外務大臣)らとともに仇を討つべく天満屋に乗り込み居合わせた新撰組と大乱闘の末切死にした21歳にして居合いの達人中井庄五郎はその2年前、四条の高瀬河畔を酔って同士と2人で歩いていて3人連れの侍とぶつかった。

相手は沖田総司・斉藤一・永倉新八という新撰組きっての手練者であったが同士は腕に傷を負ったものの中井庄五郎は無傷だった事からして並外れた剣の使い手だったのだろう。 確か、ハエを切ったというエピソードの持ち主は彼だと記憶する。 正五位を贈られ京の天満屋跡には中井庄五郎殉難の地碑が建てられている。 刺客に汚された十津川の名を挽回して尚余る儀に殉じた見事なまでのその行動は郷土永遠の誉れであろう。 

                                                   
   私の見た十津川  万理小路藤房卿の亡命          

権(ごんの)中納言万理小路(までのこうじ)藤房とは藤原藤房卿の事で1300年代を生きた人である。 後醍醐天皇の側近にあって倒幕計画に参画、37歳の折常陸の国へ流されたが1333年、後醍醐天皇の隠岐破島による建武新政成立とともに復帰、恩賞方の筆頭となるが後に権力争いに嫌気がさし管を辞め出家逐電、父大納言宣房卿とともに没年不明の人であるが、北朝の記録に無いのは当然で実は何と!南朝方の十津川へ亡命していたのである(私の推測)。 幕末の志士最年長のリーダー丸田藤左衛門(藤孝賀)その人こそ藤房卿の後裔なのではないか。 藤とは藤原氏で幕末の御所警護の折衝の際には由緒書の謹記奉呈で褒賞を賜った程の見識高き逸材である。
             
                  南北朝    1336年(1333)〜1392年 
                  藤原藤房   1295年〜   没年不明
                  丸田家の五輪塔の年号  嘉慶2年 (1388年)

北朝の年号である嘉慶がどうして南朝の十津川で使われたのかは謎とされているが、藤房卿が南北分離以前の高官であったからこそ墓を建てた後裔が北朝の年号に拘ったのではないか。 とすると墓の建立が敵対を引きずっていた時期では合理性に欠ける。 私のつたない経験から推測すると丸田家の五輪塔に刻まれた、これ程古い年代の文字があのような日当たりの良い場所で現在まで全く風化していないのは稀有で日陰からの移転と併せ、かなり後年の裔が建立したという事になるが、他に多く祀られている御当家の墓と見比べても後者と思われる。 十津川の全郷廃仏は丸田藤左衛門の力が最も大きかったとあり、火輪部の大きな破損は彼自身によると推測されるが楠正成公の孫 正勝の墓や織田信長の重臣佐久間信盛の墓なども無事残っている事からすると藤房卿の五輪塔が残っていて当然であろう。

有史以来初めて列島を隈なく制覇し隣国まで支配しようとした秀吉も、亡命貴族や要人の受け皿としての十津川に隠然たる藤原、菅原、源、平、楠、等名門列伝の血筋の前に、太閤検地後のわずか11年間のみ形式ばかりの微税を課しただけで往古より(1200年間)のご赦免地に戻さざるを得なかったのはごく当然の事かも知れない。 名門の信長公とは逆に摂関家の養子になる事で関白の位に登り詰めたのこそが名門への切実な憧れの現れであろう。 

徳川の代には村々の主だった郷士45名に禄が下されるなど重税に喘ぐ列島にあってまさに別天地、破格の待遇を保ち得たのもその所以であろう。 


                         参考文献  十津川草莽記・十津川巡り・十津川民俗資料館説明資料                                                                                                                    


ご検閲頂いた十津川教育委員会の方々やご協力下さった民族資料館の方々そして貴重なお話を聞かせて下さった
地区の方々に深く感謝し御礼申し上げます

   今の所これは現地調査と文献を元にした私個人の推測の域を出ておりません。          
2005年 夕陽の衛兵                                                      

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墓の藪と呼ばれる石塔郡は中央のどっしりした五輪塔を9基の宝篋印塔(ほうきょういんとう)が囲んでいる。

右端の宝篋印塔は鎌倉中期の形と見るが欠損した相輪部の替わりに五輪塔の空輪が乗せられている。
右から3番目、鎌倉後期のものでこれだけ原型を留めた相輪は珍しいが、移設されたこの地は余りにも日当たりが良すぎ紫外線が気になる。 (^^; 

万里小路藤房卿  ウィキペディアより

平家の落ち武者 

大阪豊中 服部緑地の日本民家集落博物館に移設された丸田家住宅  広い縁側は出陣の用意の為のものとある   トイレにまで刀掛があり維新の緊迫感が伝わってくる

強盗ではありませんよ!

若き日の陸奥宗光(陽之助)

後にカミソリ大臣と呼ばれる
       外務大臣になりました

ウィキペディアより m(_ _)m

平家の落人

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私の見た十津川・平氏の里