
源平の合戦で木曽義仲に撃破され一族郎党西海に出奔の折、足手まといになるまいと京に潜んだ平氏の老人や幼者の大半は捕らえられ、脾腹を裂かれ或いは生き埋めにされるなど筆舌に尽し難い非業の死を遂げたそうな。
だが勇敢な家来に守られ京を脱出した人達は流浪の末ようやく河内長野の滝尻まで落ち延びてきた所を源氏方の待ち伏せに遭い多数の犠牲者をだしたという。
その場所に建てられた供養塔は、幼い頃そこを遊び場としていた御祖母さんの他にはもはや知る人さえいない。
この宝篋印塔は笠の隅飾の形から鎌倉中期のものと判るが戦国時代の破壊で塔身が無くなったのか何ともユニークな形になってしまている。 残念ながら頂部に立つ棒状の相輪も捜したが見つからなかった。
多くの落武者が自刃したと伝えられる権現滝には今も霊気が満ちるとか。 霊能者の数珠が切れたというエピソードもある。 追っ手との戦いに傷付き乍もこの滝で食い止め死守し、安住の地を目前にして自らは越える事が叶わなかった無念さは察しても余りあるが、老若婦女子の盾となり、しんがりを見事に努めて潔く果てた彼らこそ忠烈の義士であり滝畑の英雄である。
これが元禄の世なら武士の鑑として賞賛を浴び後世に其の名を残したに違いないが、いつの世も歴史は勝者の都合によって作られ真実が闇に葬られてしまうものなのか。
ましてや昨今、ダム開発に加担した御用学者による平家の落武者否定論が横行するようでは烈士の霊も浮かばれまい。 だが現在滝の側には心ある方と地権者により権現菩薩が祀られ菩提を弔われているのが救いである。

もはや幻寸前の宝篋印塔は鎌倉中期の隅飾りを持つ
権現滝近くの昼尚暗い崖の上に人知れず眠る12基の五輪塔は烈士の墓か。 殆どは寝そべった状態で大部分枯葉に埋もれていたため傷みが少ない。 風化の早い和泉砂岩と思えるが、完全に土中に埋もれていた4基は風化がなく黄土色に変色している。 滝畑霊園に祭られた江戸中期の年号の読み取れるものより大きく風格がある。
この横手には昔、権現堂があったそうで数段の地形と瓦の欠片も出土した。 三谷家(平氏の後裔)による往時の手厚い供養のありさまが想像できるが、嫡孫が途絶えた今は尋ねる人もなく五輪塔は忠臣の御霊とともに静寂の森に眠っている。
戦国時代、信長軍に焼かれたといわれる権現堂跡の側で、ある御祖母さんが若き日、偶然見つけたという遠い記憶をたどり探索2日目にして漸く探し当てた幻の墓。
権現堂の釣鐘は後年、旅の僧に乞われたと云う伝説も残り伊勢の国に現存するなど諸説あるが未確認である。
三谷保桑能さんのお墓は滝畑某地区屋敷跡の山中に祀られている。三谷家には15基の五輪塔があり、現在近い方により手厚く弔われている。
『お詫び』 無断で山林に分け入り墓を掘り起こしたのは只、忠義を全うした名もなき烈士の生き様を世に知らしめたい一念によるものとお察し下さいますよう関係者の方々にお願い申し上げ深くお詫び申し上げます。 今まで無いとされていた忠臣の墓や供養塔の存在、またそれに付随して語り伝えられてきた数々のお話は滝畑に於ける謂れ無き平家の落武者否定論を完膚無きまでに粉砕することが出来ました。 お話を聞かせて下さった多くの方々に謹んでお礼申し上げます。本当に有難うございました。
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名も知れぬ忠烈義士の御霊安らかならん事を心低よりお祈り致します 合掌
2005年5月 夕陽の衛兵

河内長野から蔵王峠を越えた和歌山県かつらぎ町のてっぺんに小さな垣内(かいと)があり滝畑とは昔から姻戚関係にあるという。 長老によるとこの垣内は地名ではなく開拓の単位らしい。 平家の落武者部落に共通するように下へ下へと垣内を作りながら下っていったが、殆どは屋敷跡を残すのみで町へ出てしまったという。
古い墓のあるこの垣内だけが残ったようだ。 滝畑で見た旧家と同じ家紋のお宅の長老は、うちは平家の落武者だ(家紋から見ると郎党の子孫の意味)と、きっぱりおっしゃったのが清清しかった。

河内長野には江戸中期のものを含め古い小さな五輪塔が確認しただけでも2000基を超えるが根来衆の墓の可能性が極めて高い。 根来衆は反秀吉を貫き徳川方の傭兵集団としても数多くの戦いに参加しており、関が原に程近い滋賀県多賀町の山間にある古刹の小さな無数の五輪塔郡なども同様のものかも知れない。 平家の落武者(郎党)の子孫と和歌山における垣内、そして根来衆は不思議なくらい繋がりが深い。 兵庫県にある二つの垣内(かいちと読む)は楠正成公の子孫と郎党の開拓地だった。
伊勢平氏水軍の本拠地だった津市周辺には10数箇所の垣内があり、その後裔とみられる。
奈良の垣内は吉野地方に地図上60を越える地名を残すが南朝方の伝承のみで平家の落ち武者伝説は稀有である。 平重衡による東大寺焼き討ち以来平家は仏敵とされたが、全国に散った郎党たちは南北朝期に結集、南朝を支え垣内により徐々に拡大したのではと推測するが、奈良に於ける平家の落ち武者と垣内との直接の繋がりは、吉野川上流の上谷と伯母谷の関係を除いて他に探し出せないのが残念でならない。
和歌山と県境を接する十津川村には垣内も平家の落武者伝説もある。 十津川郷59箇村は往古より勤皇一筋を貫き免祖と治外法権が認められ郷士の合議による自治制は全国でも例が無い。 徳川幕府からは45人の郷士に録米が給されたとある。 動乱の幕末には御所の御親兵を願い出、200余名を常駐し朝廷の直臣として活躍している。 幕末、滝峠(十津川村小原)に建てられた記念碑に記された9人の郷士の中に、千葉定之介平清宗、玉置豊前平直休、吉田源五郎平正義、の名が見られる。 維新の功労により郷全戸が士族に列せられたのは快挙というほかない。十津川高校の全身、文武館は孝明天皇の勅命に依るがこれも他に例を見ない。(参考文献・十津川草莽記)
三谷保桑能さんの時代から約300年後、紀州、和泉から河内の一部にまで勢力を伸ばしていた根来衆(党)であったが信長により槇尾山施福寺が焼かれ平氏の後裔小谷城(堺市豊田)や出城(現、泉北ニュータウン原山台他)も三好勢により落城した。 根来党にあって北の最前線に位置した小谷家はその昔頼朝の命乞いをした報恩により存続した平清盛公継母の血筋で南朝方でも軍功を立てたが戦国末期根来攻略の矢面に立ち落城、逃れた子孫が城跡に住みつき大阪冬夏の陣で紀州や十津川の平家一門と共に逆襲、その後地士となったが伯太藩主渡辺侯を度々屋敷に招く程の家格だったという。 根来党は本山の根来寺も兵火に遭った。が、兵力は温存されていた事から見ると紀州同様、河内長野に隠然(陰の実力者)たる三谷家は事なきを得た可能性が残るが栄枯盛衰しばしばあったと文書にあるようにその後が危ぶまれる。 (小谷家については小谷城郷土館の案内板を参考)
秀吉の紀州攻めにより根来衆(党)など地士の連合軍に隠然たる紀州の某、平氏の裔が滅ぼされ領地没収となっているが幸い幼君は生き延び徳川の代に復帰し現在に続いている。 その重臣だった御祖母さんのお宅に古文書があるといわれ先祖は徳川時代根来衆として月に2日お城へ出仕したという。 信長亡き後秀吉と家康のせめぎあいで家康の要請を受けた某、平氏の裔は小牧長久手の合戦の折、根来衆等(ここでは紀州の地士36団体を指す)の代表として地士、渡辺藤左衛門と共に岡崎城(愛知県)へ出向き本多平八郎忠勝の披露で家康公に謁見、領知安堵のお墨付きを頂戴したと某家の古文書にある。
(根来党の渡辺藤左衛門は先年、雑賀衆と共に神戸花隈城にあり大将の一人として信長勢と戦い、その後和泉各地の砦を応援、是を迎え撃っている)
また紀州有田郡に隠然たる平維盛卿嫡孫の系図によると天正年間19代目当主(60歳)以下秀吉の紀州攻めで討ち死にし領地没収、当主の弟君が家督を継ぎ後に紀伊初代藩主徳川頼宣候より明治に至るまで禄米を頂戴したとある。 これは紀州の根来衆(党)の史実を同じ根来衆としての滝畑に当てはめた推測だが、三谷家の男子が元服していれば小牧長久手の合戦で徳川方に付き後攻めを仰せつかり堺まで攻め上った後、家康、秀吉が和睦した為軍勢を引いた根来衆(党)の平氏の裔と郎党の主だった者は当然紀州と同じく秀吉に滅ぼされたと見るべきだろう。 三谷家が取り潰された為家名を残せずやむなく、文書にある様に一女が同郷同門へ嫁ぎ血筋を繋いだのであろう。
徳川の世になって滝畑から狭山藩へ足軽を出したのは、その昔、忠臣に助けられ生き残った三谷家主従の後裔が戦国時代根来衆(党)として徳川方に付き活躍した事に起因すると捉える以外にない。 当然大阪夏の陣にも徳川方として参戦した事であろう。 根来軍団(最大時の寺領72万石、坊舎2700、僧兵2万余)が家康公より領地安堵のお墨付きを頂戴していたのは紛れも無く、また主をなくした三谷家の郎党が後の世まで根来衆と深く繋がっていたのは紀州と同じ小さな多くの五輪塔郡から見て疑う余地が無い。幕末、紀州の根来衆と同じく滝畑からも沿岸警備の鉄砲隊を出しているが猟師は一人もいなかったと河内長野史にあり、それを裏付けている。
蛇足で申し訳ないが私の故郷は平家の落武者郎党の後裔(早い話が敗残逃亡兵)が開拓したという僻地の村で遠い先祖は某平氏の裔の隣の村から4人で山を越えて開拓に来たと祖母によく聞かされた。 お寺にある一番古い五輪塔は長老の招いた四天王寺所縁の鑑定士によると600数10年前(南北朝)のものだという。そして言い伝えどおり村には家紋が4種類しか無い。 生家の家紋は丸に立沢瀉(タチオモダカ)で、子供の頃祖母が我が家はオモ垣内筋じゃと言っていた意味が最近解った。 維新まで根来衆として紀州藩では足軽のような処遇を受けたみたいで祖母が子供の頃、後の姑が盆踊りで『♪〜こちの在所に2本差しゃござる〜♪?途中不明?♪我が家じゃ我が家じゃ〜♪』と歌っていたと祖母によく聴かされた。
もしや?徳川史にある廩米3石の在郷根来同心では? 給料安過ぎてもぶらぶらするだけなら・・・なりたい〜 (^。^)
村独特の江戸訛りは、お庭番や鉄砲100人組の勤番帰りを真似たものだと推測する。
お庭番といえば平氏を称する服部半蔵を連想させるが、忍者は初代(戦国)のみ。 代々名を継ぎ徳川秀忠の代で改易となるが3人の子が松平家に仕えたとあり、また南紀徳川史には小人目付として伊賀者の名をとどめる。 8代将軍吉宗公が紀州の根来衆、薮田助八数直に組織させたのがお庭番の始まりとある。
家康公江戸入府に際し日本橋浜町に根来の山伏100人を住まわせ“根来同心”と称し、そこにある井戸は山伏の井戸と呼ばれていた・・・とあり “山伏の井戸” は歯痛に効くというので人々の信仰が厚く大正の頃まで常に井戸に蓋をし、その上に塩と楊枝が載せてあった云々、後にこの辺は文人や医者が多くなった等々、だが明治に埋められた記録も残るそうです m(_ _)m 。
生家に古い日本刀があり祖母が長持(衣類を入れるコマ付きの大きな箱)に隠していたのを持ち出して叱られた事があった。 祖母に植え付けられた尊皇思想や武士は食わねど高楊枝的な痩せ我慢根性は今も引き摺っている気がする。 母の祖父は維新の頃、岩出(根来)で介錯を仰せつかり晩年母の長姉に其の時の辛かった話をよくしたという。 今にして思うと父母は同族で、ともに先祖は根来衆(党)と深く関わっていたようである。 宗旨は徳川家に倣い双方浄土に改宗しているが納骨は変わらず高野山である。
河内長野滝畑にユニークなエピソードがある。 菩提寺の槇尾山は根来党(新義真言宗)の拠点だった為、信長に焼かれ後に家康の意向で秀頼が再建、徳川3代家光公が上野寛永寺(天台宗)を開基、吉宗公もそれに倣い菩提寺とした。 槙尾山施福寺も表向きは天台宗に改宗し、寛永時の末寺になったにもかかわらず真言宗のお経を唱え続けてきたが、つい最近和尚の世襲とともに天台宗のお経に変わり檀家の皆さんが困惑しているとの事である。 ここでも根来衆との深い繋がりを垣間見る事が出来る。 納骨も互いに宗派が違うが私の故郷と同じ高野山(真言宗)である。
因みに平家一門7000騎西国へ都落ちの際、亡き清盛 重盛の重臣(代々平家嫡男の家老職)平貞能は我が身の危険も省みず京に戻り重盛の墓を掘り返し火葬、高野山へ納骨の後、遺族を伴い東国へ落ち延びたそうな、この信心深い天晴れな忠臣に泉下の重盛卿もさぞや喜ばれたであろう。
桓武平氏繁盛流大掾氏を頼り水戸白雲山中腹に重盛の分骨を埋葬、重盛忌み名の小松寺を開基、重盛と夫人の墓の側に貞能の墓もあるそうな。
維盛主従も高野山で剃髪の後熊野へ落ち延びており、また後世の垣内が高野山を中心に派生しているのが古い地図に顕著で、平家の残党と真言宗の縁の深さを物語る。
滝畑のあるお宅の95歳の御祖母さんによると、狭山のお城ではタクアンの古漬けの煮物しかおかずに出ないので、鉄砲足軽の御祖父さんは梅干をカマス(ムシロで作った入れ物で数10リッター入る)に入れて持参したと笑いころげるようにお話して下さった。 殿様直々の猪狩りには村人挙って参加したそうである。 滝畑は関東にさえ知る人ぞ知る心霊スポットであるそうな。それだけ重い歴史とそれを背負った人々の生き様があった証だろう。 それが幾千の守護神となり守るであろう山河も人も清々しく今日も湖面の空が青く澄み渡っている。
2005年 夕陽の衛兵

弓場と呼ばれる山頂からは滝畑の全集落が見渡せる。 ここから射た矢文が向いの山の神社まで届いたと言い伝えられる。(神社に程近い95歳の御祖母さんの口伝)

平家の落ち武者伝説
かつらぎ町の垣内(かいと)
小さくはあるがれっきとした古刹、観音寺に祀られた宝篋印塔 (前列右から2番目)の笠の形は鎌倉中期のものだが例に洩れず相輪部が無くなっており、五輪塔との合体である。
ここの垣内には他の平家の落ち武者開拓部落に多く見られる1体作りの小さな五輪塔郡がない。 秀吉の焼き討ち以降人々は刀を捨て、観音信仰とかつらぎ山の恵みに依り、ひたすら平和に過ごしてきたのだろうかと山頂まで覆う檜の美林を見て想った。
この里には忘れてはならない救い主がいる。 日照りが続いても冷たい水が滾々と湧く、弘法大師の井戸伝説。
平家の落ち武者伝説
河内長野滝畑 三谷保桑能(みたにほそのう 1195〜1281)と権現滝の英霊
日本橋浜町のビルの壁に貼られた案内板にも根来同心所縁の山伏の井戸が記されています。
因みに暴れん坊将軍の影に控える助八は実在した人物です。 吉宗公に見出され紀州の出身者だけで組織したお庭番のリーダーで、その名も薮田助八数直ですが相棒のおそのが実在したのかどうかは定かではありません 。 ウィキペディアでは何故か薮田定八となってます ![]()
紀州での若き日の吉宗公は新之助と呼ばれていたそうです 。
徳田?ではなく勿論徳川新之助ですが、テレビも結構調べてるんですね! 。
和歌山県立図書館所蔵 南紀徳川史より
山岳重畳四囲を塞ぎ煙霧朦朧家山を包む。積雪深く三冬を貫き春花夏草山野を埋む。 このような書き出しで始まる、かなり誇張が多いものの惨状の描写などはかなりリアルと思える書き物の写しが河内長野滝畑某地区の旧家にある。 今尚、屋敷に茂る矢竹(弓矢に使う竹)とむき出しの萱葺き屋根に800有余年の往時が偲ばれる。 保桑能さんの父が家来に守られこの地に落ち延びてきたのは1185年、未だ小年期であった。 この物語の主人公は平家滅亡の10年後(1195年)にこの地に生まれ、武道に長けた弓の達人であったそうな。
度々北条氏への仕官を勧められるが、其の身は平氏の裔、仇の子孫に従うを潔しとせず生涯この地の長となり静かに暮らしたという。 生涯武勇伝は数多いが蔵王山の大蛇を退治して金瀧不動寺(光滝寺)へ納め、後年この寺の僧になったと伝えられ、大蛇の頭は当寺に現存するという。 子孫は代々この村の長となり数百年、栄枯盛衰しばしばあったが一女が同郷某家へ嫁ぎ子孫を歴然と伝えているとある。
源平合戦当時、河内を治めていた源行家は平家滅亡以前(1183)に木曽義仲に追われ鎌倉方にも相容れられず紀州に隠棲しており、義仲もその後討ち死にし、また往時河内長野の滝尻まで天野山の寺領であったことや源氏方の内紛が平家の落ち武者の逃亡を助けたともいえよう。
2005年5月 夕陽の衛兵